市制施行

しせいせこう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1916年4月、市政施行時の尼崎市域
1916年4月、市政施行時の尼崎市域

  明治末期人口が急増し都市的発展の様相を示しつつあった尼崎町では、学齢児童の増加による教育費の増加、伝染病多発による予防対策費その他行政費の増加、さらに郡費負担の増大などのため町財政は膨張し困難となりつつあった。特に郡費負担はそれに見合うだけの郡の補助金等がなく、その点からも郡からの離脱が望まれた。また当時計画されつつあった上水道の建設のための国庫補助が得やすいということから市制実施が望まれ、1915年(大正4)7月尼崎町会は市制施行の上申を満場一致で決議した。当時町の人口は2万6,000人余で市制の要件である3万人に足りなかったので隣接地域を合併する必要があった。まずその候補として工場化がすすんでいた小田村南部が考えられたが同村の内部事情で実現しなかった。つぎに立花村のうち尼崎町に隣接する東難波西難波の両大字を分離して合併することでいったん合意が成立したが、立花村から異議が出、郡長の仲介の結果3,500円の褒賞金を町から立花村へ寄贈することで分離が実現し、1916年4月1日東西難波を編入して市制施行となった。市会議員定数30人(尼崎町会は24人)で三級選挙制となり、5月30日に三級、31日二級と一級の選挙が実施された。初代市長には桜井忠剛が就任した。

執筆者: 山崎隆三

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