乾鉄線

いぬいてっせん
日本鉄線鋼索より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1917年(大正6)12月、海運業・金融業を営む乾新兵衛が大庄村道意新田(現道意町7丁目)に乾鉄線(株)を設立した。この段階ですでに工場も竣工している。国内では東京製綱に次いで古くから鉄線(ワイヤーロープ)を製造する企業であった。昭和恐慌下の1927年(昭和2)には、乾鉄線争議として知られる激烈な労働争議が起こっている。1931年1月に日本鉄線鋼索(株)と改称。線材二次製品メーカーとして、神戸製鋼所から同社製の線材を購入加工する取り引き関係にあった。1943年3月、神戸製鋼所は日本鉄線鋼索を買収して同社尼崎工場とし、当時軍からの要請により研究していたハイカーボン線材国産化の研究工場と位置付けた。戦時体制下においては軍の管理下に入り、航空機エンジン用弁バネをはじめ各種兵器用バネ材となるピアノ線を開発・製造し、鋼索を増産した。1945年初頭の従業員総数は、徴用工約100人、勤労動員学徒約300人、女子挺身隊約20人を含む約1,000人に達していた。1954年4月1日、神戸製鋼所尼崎工場は神戸製鋼所から分離して神鋼鋼線鋼索(株)となり、線材二次製品メーカーとして独立した。1969年10月、加古川市に尾上工場を新設。1971年4月には(株)朝日製綱所を合併して同社を泉佐野工場とし、同時に社名を神鋼鋼線工業(株)と改称した。1988年5月に本社および尼崎工場を道意町から中浜町に移転し、1995年4月には研究所も同じく中浜町に移転した。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『神鋼鋼線工業三十年史』 1984