大気汚染

たいきおせん
煤煙より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

戦前

  尼崎が工業都市として発展するなかで種々の公害が発生したが、その最大のものは大規模な火力発電所の煤煙による大気汚染である。尼崎には1921年(大正10)東浜町に新設の阪神電鉄東浜発電所が3回にわたって大拡充し、ついで1925年その北側に日本電力が当時日本最大の発電所を建設(尼崎東発電所)、さらに1931年(昭和6)以降4電力会社による関西共同火力発電大庄村地先の埋立地に東洋最大の尼崎第一・第二発電所を建設した。1939年日本発送電の設立とともにこれらはすべて同社に移管され、その総出力は61万(1943年には78万)kW以上に達し、近畿地方の火力発電力の57%が尼崎に集中したのである。1933年関西共同が操業を開始したころから降塵は市内一円にいちじるしく、ために眼疾・結核・皮膚病・乳幼児死亡の急増はては植樹の枯死、家屋への煤塵の侵入など市民の被害は甚大となった。市会1936年煤煙防止河川浄化委員会を設け、衛生組合連合会と共同して除塵装置を会社に要求し、市当局をまきこみ政府にもくり返し陳情するなど、戦前には例のないほどの公害反対運動を展開した。その結果翌1937年発電所側はボイラーの一部にコットレル式除塵装置をつけることを約束したが容易に実現しなかった。日本発送電の発足後も交渉がつづけられ、戦時下資材の不足のため装置の製造がおくれたが、1941年ようやく東浜発電所と第1発電所あわせて20罐のボイラーのうち7罐に装置が完成した。しかし残りの大部分は未完成のまま終戦を迎えた。

執筆者: 山崎隆三

戦後

  戦後の産業・経済の発展にともない、1951年(昭和26)ころから大気汚染による生活環境の悪化が深刻な問題となってきた。当時の大気汚染は、日本発送電1951年5月解体され関西電力発足)を中心に鉄鋼・化学工業・窯業等の市南部工業地帯の大工場から排出される汚染物質が主な原因であると考えられた。1957年には市長を本部長とし学識経験者・産業界代表者等で構成された尼崎市大気汚染対策本部が設置され、大気汚染や健康影響の実態調査のほか、各種対策が実施された。さらに1965年以降、各種法令にもとづく規制・指導のほか、公害防止協定や尼崎市民の環境をまもる条例によるきめ細かい対策が推進された。その結果、降下煤塵・硫黄酸化物は大幅に改善された。また、近年は交通量の増大にともない、国道43号等幹線道路を走行する自動車から排出される汚染物質が工場・事業場に代わって大気汚染の主な原因となり、窯素酸化物・浮遊粒子状物質は改善傾向が見られていない。

執筆者: 鈴木直文

参考文献

  • 小野寺逸也「尼崎における公害問題の展開過程(2)」『兵庫史学』第46号 1967

関連項目

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