砲術

ほうじゅつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  鉄砲火薬を製作・操作する軍事技術。戦国時代には大きい役割を果たしたが、平和になると砲術の発展は停滞した。しかし幕末の緊迫した対外情勢のなかで関心が高まり、1841年(天保12)オランダ技術を学んだ高島秋帆の西洋砲術が幕府に認められてから高島流の西洋砲術が急速に普及した。各地に反射炉が築造され、旧来の青銅砲から鉄製砲に転換した。尼崎藩では、近世初期以来泊兵部少輔一火が天正年間(1573~1592)創始したといわれる一火流砲術が伝えられていたが、1724年(享保9)武衛流の奥山儀太夫が、その後河合家が、また寛政年間(1789~1801)には萩野流の家松家が砲術家として藩に仕えた。これらの砲術家による鉄砲射撃と花火の打ち上げは武庫川原においてしばしば行なわれ、藩主の上覧や近国から集った多数の民衆の見物で賑わった。このように太平の世には砲術は本来の軍事的意義を失っていた。しかし阿片戦争に驚いた幕府が1842年(天保13)諸藩に大砲の保有数の書き上げを命じたとき尼崎藩ではわずかに大筒1門をもつのみであったので、領内から献上金によって急遽大砲を鋳造し、同年末には大小7門を備えることができた。1863年(文久3)藩は今福村・初島新田大高洲新田・未〔ひつじ〕新田・丸島新田の5か所に砲台を築造し、また江川太郎左衛門のもとで高島流を学んできた奥山儀平次が指導して領下の農民に砲術の調練を実施した。1867年(慶応3)には高島流調練をうけた西洋式銃隊が編成された。1869年(明治2)設立された藩校正業館では砲術の教科が置かれ、三留(当)流・高島流が採用された。

執筆者: 山崎隆三

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