下坂部

しもさかべ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  小田地区の大字。市域東部、久々知をはさんで上坂部の南東に位置する。弥生後期~古墳時代下坂部遺跡があり、また伊居太古墳が残っている。坂部は南北朝時代から史料に見る地名で、下坂部の史料上の初見は1445年(文安2)「興福寺東金堂庄之免田等目録帳」(『尼崎市史』第4巻)で下坂部庄とある。下坂部荘の荘域は下坂部・久々知と考えられている。

  近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年尼崎藩領1643年(寛永20)尼崎藩から分知された旗本青山氏(幸正系)同(幸高系)の入組となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」のいずれにも521.655石とある。また1672年(寛文12)の「下坂部村宗旨改め・家数人数改帳」(橋本治氏文書)には家数49軒・人数240人とある。大井組に属した。氏神は伊居太〔いこた〕神社(近世には春日大明神社)、寺院は浄土真宗大谷派蓮生寺。明治期に下阪部と記される例があるのは、大坂が大阪とされたのと同様であろう。

  1889年(明治22)以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。19801983年の住居表示により下坂部となったほか、一部が若王寺〔なこうじ〕・久々知・潮江となった。

執筆者: 地域研究史料館

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