地租

ちそ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  地租改正により江戸時代の米納年貢にかわって創出された土地に賦課される金納租税。1873年(明治6)の地租改正条例では地租は地価の100分の3と定められていたが、改組にたいする農民の強い抵抗があったので政府は1877年1月地租率を100分の2.5に引き下げた。その後もなお農民の減租の要求が強かったので、1889年1899年の二度にわたって大規模な地価修正が実施されて地租は減額された。しかし日清戦争後の軍備拡充と日露戦争中の戦費増額のための増税のなかで、地租も1899年1904年1905年の3回にわたって増税となり、田畑の地租率は100分の5.5に市街宅地は20.0に、郡村宅地は8.0に引き上げられた。この非常特別税法は日露戦後も継続されたが1910年には田畑は100分の4.7となり、さらに1915年(大正4)には100分の4.5まで引き下げられた。地租は明治初年の政府の最も重要な財源で、1885年(明治18)まで租税収入の80%以上を占めていたが、明治中期以降その比率は漸減し、1913年(大正2)には20%、1925年には10%まで低下した。このころ地方財政の困難を打開するため地租(ならびに営業収益税)を国税から府県税に移管する両税委譲がしばしば政治問題となったが、ついに実現しなかった。こうして地租は地方税とはならなかったが、府県税・市町村税の最も重要な地租割賦課の基準となった。戦後は、1947年3月に地租法が廃止され、4月以降地租は国税から府県税へと移管、1950年8月からは市町村税である固定資産税となった。

執筆者: 山崎隆三

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