工業用水道

こうぎょうようすいどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎の工業用水道は、地盤沈下対策として布設された。大正期には多くの工場が水利を容易に得られる地下水に求め、河川の周辺や河口の低地帯に立地した。工業化の急速な進展は、地下水の利用を拡大し、その過大な使用が水秩序を破壊し、極限状態としての地盤沈下が生じた。地盤沈下防止の根本対策としては、地下水の代替水を供給する工業用水道を建設する以外にないとして、市は1947年(昭和22)、さらに1951年に建設計画を発表したが、いずれも財政難のため実現するに至らなかった。1956年に工業用水法が制定され、尼崎市は適用第1号として指定されたので、地盤沈下激甚地帯である南部地域を対象に、武庫川を水源とする工業用水道第1期事業(南配水場)に着手した。1957年の施設一部完成により16工場に対する給水を開始し、1958年には第1期事業が完成したため24工場に対して日量6万m3の給水を開始した。その事業効果は著しいものがあった。1957年における東向島の地盤沈下量は、15.75cm、大高洲では17.4cmであったのが、事業完成後の1959年にはそれぞれ7.5cm、8.8cmと半減した。昭和30年代の日本経済は高度成長期を迎え、工業生産は一段と活発化し、工業用水の需要は急増する一方、市の東北部に進出する工場も多く、同地域の地下水利用も拡大する傾向にあったので、従前の地下水代替水のみでなく、生産増強水の確保が必要となった。そこで引き続き淀川を水源とする大規模な拡張事業を実施、1964年に第2期事業(北配水場)、1968年に第3期事業(園田配水場)を完成させ、給水能力日量47万4,000m3を有する工業用水道を整備した。総事業費は約73億円であった。地盤沈下は事業の進行とともに鎮静化し、全事業完成後の1969年には沈下量は平均で念願の0cmを記録、ようやく終息するに至った。

執筆者: 西山清弘

  淀川を水源とし、大阪府三島郡三島町(現摂津市)から田能の園田配水場を経て尼崎市・西宮市・伊丹市の三市に給水する第3期事業は、配水場までの導水部分について尼崎市が他の二市の委託を受けて施行する三市共同事業として実施された。この工事の過程で、田能遺跡が発掘された。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『尼崎市水道70年史』 1988
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