田能

たの
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  園田地区の大字。猪名川の両岸にまたがっており、縄文晩期から古墳時代猪名川川床遺跡弥生時代田能遺跡がある。史料上の初見は「大乗院寺社雑事記」寛正2年(1461)6月1日条で田能村庄とある。当時、田能村大和守と称する土豪が当地に城館をかまえ、久米井(近世には九名井または原田井)の帰属をめぐって興福寺領の六車郷と争った。また、戦国時代末期の武将中川清秀の配下にも田能村氏の名が見え、田能を本貫の地としていた。

  近世初期には幕府領1617年(元和3)に極小部が旗本長谷川氏(守知系)の知行所となりのち同氏守勝系に分知、残りの大部は幕府領または大坂城代領大坂定番領、大坂定番の武蔵国岡部藩安部氏(信真系)の領地であり、1678年(延宝6)に一部が安部氏(信厚系)に分知された。ほかに、幕末には猪名川沿いの流作地が幕府領であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に476.24石、「元禄郷帳」に473.842石とある。三ツ又井組九名井組に属した。氏神の春日神社1906年(明治39)に素盞嗚神社、その後に恵比須神社が合祀され、1960年(昭和35)には奥津彦神社も合祀。寺院は浄土宗慶徳寺・浄土真宗本願寺派覚円寺。村の芸能として田能の獅子舞が伝わっている。

  1889年(明治22)以降は園田村1947年(昭和22)以降は尼崎市の大字となった。1987年の住居表示で田能となり一部が椎堂〔しどう〕となった。

執筆者: 地域研究史料館

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