水害

すいがい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎市域の大部分は低平な沖積平野で占められており、南部が大阪湾に面し、東西は猪名川神崎川武庫川に挟まれているため、古代以来、高潮と洪水の害を繰り返し被ってきた。1475年(文明7)8月の大風では、高潮のため尼崎で人家や千人余の人が波にさらわれたという(異本東寺長帳)。その後も諸記録に尼崎の高潮・洪水の記録が残るが、被害の状況が具体的に判明するのは江戸時代以降のことである。たとえば、1670年(寛文10)の高潮では道意新田の人家が残らず流出し堤が崩れ、尼崎城内にも潮水が入った。武庫川では1712年(正徳2)、1740年(元文5)、18651866年(慶応元・2)などに大きな洪水がおこり、被害は川沿いの村々だけでなく尼崎城下にまで及んだこともあった。猪名川・藻川でも1740年(元文5)には上食満田能ほかで堤が切れ、尼崎城下付近まで水が及んだ。堤防の決壊、人家や田畑の流出は、人命や米その他収穫物の損害だけでなく、堤防復旧のための人足負担や耕地に入った土砂の取り除き作業、埋没した用水路の復旧をめぐる井組間の紛争の発生など、災害後も長く影響を与えた。

  近代になっても、1871年(明治4)大庄臨海部での高潮、1896年から数年のあいだ続発した藻川の決壊、1898年武庫川洪水などによる被害があった。昭和になると高潮が目立つようになり、ことに1934年(昭和9)の室戸台風、戦時中の1944年の台風、1950年ジェーン台風では市域の広い範囲に浸水がおよび、防潮堤の建設が急務とされるようになった。

執筆者: 地域研究史料館

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