深正院
じんしょういん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
大物村字田町(現大物町2丁目)にある浄土宗・知恩院末の寺院。山号は道慧山。尼崎藩主松平氏の菩提寺で、松平氏一族や藩士の墓がある。1711年(正徳元)尼崎に入封した松平忠喬が、先代忠倶の菩提を弔うためその院号を寺名として建立した。『尼崎志』によれば、近代初頭の尼崎城廃城にともない、1874年(明治7)に城内本丸御殿の「金の間」を深正院が買収して移築し、同寺の本堂としたという。ただし、この本堂は太平洋戦争末期の空襲により焼失し、現存していない。
深正院の敷地について、『尼崎志』は、戸田氏(氏輝系)の菩提寺で1635年(寛永12)戸田氏転封とともに大垣に移った円通寺と、青山氏の菩提寺で1686年(貞享3)八部〔やたべ〕郡坂本村(現神戸市中央区)に移された安養寺も同所にあったと推測するが、1635年(寛永12)8月、戸田氏時代最後の城下絵図において円通寺は寺町全昌寺の東隣にあり、後の深正院の位置には戸田家の下屋敷が描かれている。この下屋敷は、戸田氏に替わり尼崎に入封した青山氏に1,500石の禄高をもって同年10月召し抱えられた熊本藩加藤家浪人・貴田玄番正勝の屋敷に充てられたと見られ、青山氏転封後の松平氏時代に深正院の敷地となった。貴田玄番家は青山氏家臣団中最大の家禄を拝領し、尼崎から転封の後信州飯山・丹後宮津を経て美濃郡上に移封された青山氏の筆頭家老を幕末まで勤めている。なお、尼崎は日本各地に伝わる「皿屋敷」伝説の舞台の地のひとつであり、青山氏が尼崎から転封した後に出版された読本『銀のかんざし』では悪家老「喜多玄番」が貴田玄蕃をモデルとして描かれる。『尼崎志』は『銀のかんざし』にも言及しつつ、深正院の井戸を怪談と関連付ける伝承を記録している。