藩学

はんがく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎藩主の儒学への関心はすでに早く戸田氏鉄と藤原惺窩の関係にうかがわれるが、その後しばらくは他藩にもみられるように、儒者が藩主の個人的師として招かれたり、政治顧問であることが多い。藩内における儒学への関心が高まったのは、青山氏にかわって遠江国掛川から松平氏が入封した1711年(宝永8)以降であり、元禄期上方の学芸振興と応じながらの動きであった。藩学の展開に中心的役割を果したのは阪本順庵以下阪本家代々の人たちであった。順庵は京都における最初の徂徠学の主唱者宇野明霞に学び、順庵没後阪本幸庵は服部南郭の門弟斎静斎と親交があり、静斎を尼崎藩に迎えたこと、さらに蘐園〔けいえん〕学派の立場から幸庵らが校注作業をすすめたことは、蘐園学派の学統を中心とした尼崎藩の学風形成に大いにあずかった。阪本宣業は元来私塾としての鳳尾園を清熈園という家塾とし、主として藩士を対象とした定例の講席が設けられたと考えられる。明治維新後の正業館まで藩校は設けられていないが、それに相当する機関として清熈園が位置づけられたことは藩士教育の上に画期的意味をもつものであった。宣業没後大坂で活躍していた藤沢東畡、その門弟中谷雲漢が迎えられている。大坂に隣接した城下町であったこともあって多くの学者が来訪し、学派を超えた交流があり、多様な学芸の状況があったといえよう。

執筆者: 竹下喜久男

参考文献

  • 岡本静心『尼崎藩学史』 1954 尼崎市教育委員会・尼崎藩学史出版協会
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