西宮戎

にしのみやえびす
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  西宮神社(通称西宮戎)には、古くから傀儡子と称する人形を操ることを特技とする一団の住民が居住し、神社所属の雑役神人として奉仕のかたわら、エビス神の神徳や縁起を自己の技芸の主題としてあやつり、民衆に対して大いに神徳の宣伝を行なった。一方、女性は神崎川のほとり、神崎・蟹島あたりに安住して遊女として活動した。これを「夷〔えびす〕かき」「戎まわし」とも呼んだ。この芸能が最も人気を得たには、永禄寛永(1558~1644)ごろにかけてであって、数十回近くも宮中に参入して上覧に供したことが記録に見えている。近世中期地元でも盛んに興行が行なわれ、1720年(享保5)3月27日に尼崎城主松平忠喬の息女が、産所芝居見物に来場し、合せて戎社にも参拝し、また、1724年4月2日に再び尼崎藩主姫君の操り見物があり、さらに1745年(延享2)8月29日に再度芝居見物があったことが、神社日記に記されている。この芸能も明治期に入り次第に衰微し、中期以降廃絶のやむなきに至った。しかし、その一部が早くから淡路に移行して淡路人形操りを興し、さらに、江戸時代中期に大坂で、浄瑠璃の語りと三味の音曲が合した「文楽」に発展することとなった。そのルーツをここに求めることができるであろう。

執筆者: 吉井良隆

参考文献

  • 大江房「傀儡子記」『日本思想大系』 8 1979 岩波書店
  • 『西宮神社の歴史』 1985 西宮神社

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