青山氏(幸成系)

あおやまし(よしなりけい)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  三河国百々村〔どうどうむら〕(現愛知県岡崎市)の出。幸成の父忠成は1590年(天正18)の小田原征伐後、徳川家康の家臣として相模国において5,000石の分封地をうけたが、関ヶ原の戦い後、1601年(慶長6)上総・下総において加増をうけ1万6,000石の大名となった。その嫡系(忠俊系)は篠山藩として定着する家となるが、次男幸成も大坂の陣1619年(元和5)加増されて常陸国1万3,000石の大名となった。1633年(寛永10)遠江国掛(懸)川(現静岡県掛川市)に移り2万6,000石、翌年3万3,000石。そして1635年5万石となって尼崎に入部した。在城は幸成-幸利-幸督-幸秀4代にわたった。幸成の遺言どおり新田高のうち4,000石を本高に組み入れたうえ二男以下3子へ、合わせて6,000石を分知することが認められ、幸利以後、藩は4万8,000石に減じた。1711年(宝永8)信州飯山(現長野県飯山市)へ、1717年(享保2)丹後国宮津(現京都府宮津市)へ、そして1758年(宝暦8)美濃国郡上〔ぐじょう〕(現岐阜県郡上市)に移って定着した。

執筆者: 八木哲浩

  青山氏(幸成系)当主の子息が、2代にわたって宗家である青山氏(忠俊系)当主の養子となり家督を相続している。幸成系3代幸督の次男忠朝〔ただとも〕は、1730年(享保15)7月に青山俊春〔としはる〕(丹波国亀山藩主)の養子となり同年9月襲封、1748年(寛延元)8月に転封して丹波国篠山藩主となり、後に大坂城代を勤めた。さらに幸成系4代幸秀が丹後国宮津藩主であった時代に生まれた7男忠高〔ただたか〕が1754年(宝暦4)8月に忠朝の養子となり、1760年(宝暦10)9月に忠朝が死去すると家督を継ぎ篠山藩主となった。

執筆者: apedia編集部

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