公議人

こうぎにん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1868年(明治元)10月の藩治職制によって、各藩の藩論の代表者として選出することが定められたもの。公議人は、公議所(のち集議院と改称)の議員として召集され、政府と直接つながりをもったので、藩内部での発言力が強かった。尼崎藩では、すでに同年4月に藩から藩論を代表する貢士として送られていた豊田連が、初代の公議人となった。2代目の服部清三郎は公議所議員のなかで幹事に選ばれた。1869年5月郡県制がよいか封建制がよいかという公議所での政府諮問にたいして、服部は当時の藩論の大勢が藩体制を維持しようとする保守的な方向にあったことを反映して「封建議」に賛成した。1870年の藩制において、公議人の呼称は廃せられ、正・権大参事のうち1人が集議院の議員となることが定められた。

執筆者: 山崎隆三

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