士族

しぞく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1869年(明治2)の版籍奉還後、維新政府は6月、諸藩主は華族、藩士は一門以下平士にいたるまですべて士族と称するよう令達し、さらに同年末には幕臣も士族・卒と称するよう命じた。このとき尼崎藩では一門の桜井忠顕以下529人の藩士が士族となり、また令達には示されていなかったが下級の藩士608人を卒と称し、卒はさらに上下2階級に分けた(翌年この上下の区別は廃止した)。廃藩置県後の1872年正月政府は秩禄処分の前提として士族・卒の区分を廃し、世襲のものを士族、一代限り抱えのものを平民とすることを布達した。これによって旧尼崎藩の士族は773人(ほかに一代卒7人)となった。士族は秩禄処分によって零落し他に移住するものが多く、また士族反乱や民権運動に参加した。その反面時代の流れにのって政官開・教育界・経済界などで成功したものであった。たとえば尼崎藩の場合、初代町長川辺馬車鉄道社長となった伊達尊親、学区取締の久保松照映私塾を経営して多くの人材を育てた豊島成温内田頼重尼崎紡績の創立委員の平林昌伴マッチ工業をおこした小森純一・小嶋廉平、尼崎銀行取締役の村松秀致らがいる。また鉄道省に入り大阪駅長などを歴任した寺島延吉のような官吏になったものもあり、警察官もほとんど士族で占められた。

執筆者: 山崎隆三

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