平林昌伴

ひらばやしまさとも
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1824年(文政7)正月9日 - 1899年(明治32)10月16日

  元高(維新前の禄高)20人扶持の下層の尼崎藩士であったが、1870年(明治3)の藩制布告で納戸掛(のち会計掛)に登用され改正高14石を給された。秩禄公債が公布されると窮迫した士族のなかには公債を売却するものが多く、特に尼崎藩と関係のあった伊丹の酒造家・豪商の小西新右衛門の公債買い集めにあたっては平林はその仲介役となり、1875年2~4月の間に83人の士族から額面約2万円の公債を仲介した。彼は納戸掛として商才にたけていたと思われ、尼崎藩のみでなく小西の依頼で他藩の秩禄公債の買い集めを行なうなどして資産を蓄え、1877年尼崎の国立銀行設立計画の発起人にも加わっている。そのときの財産調べによると田地1町6反余、現金3,200円を所有している。尼崎紡績の創立委員、初代監査役に就任した。1889年には一級尼崎町会議員に当選したが、就任2か月で辞任した。

執筆者: 山崎隆三

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