大庄・立花・武庫村の合併

おおしょう たちばな むこむらのがっぺい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1923年(大正12)尼崎市が都市計画指定都市となり、翌1924年には小田大庄立花武庫園田の5か村が尼崎都市計画区域に包摂され、尼崎市を中心とする単一の都市圏として統一的行政の必要が生じてきた。そのうち小田村は1936年(昭和11)尼崎市と解消合併し、園田村はその翌年尼崎警察署から伊丹署に管轄替えとなり、合併には警察管区が同一であることが前提であったので、ここで園田村の合併は一応解消し、1947年まで合併は実現しなかった。1939年大庄・武庫両村が西宮署から尼崎署管内に移ったので、尼崎市と大庄・立花・武庫3か村は尼崎署管区に統一され、合併の条件は前進した。そのころ他方では大庄・武庫両村と武庫川対岸の瓦木・鳴尾両村とが合併して新市をつくるという武庫川市構想が生まれたが、これは結局実現しなかった。そういう情勢のなかで、1940年9月尼崎市から3か村側へ合併の申し入れがなされたが、大庄村は財政力も充実しているので村内部に合併反対論もありこのときは進展がなかった。ところが、1941年1月の大庄村長選挙は同票となり、5月となって抽せんで合併賛成派の平瀬巖若村長が就任した結果合併運動がにわかに活発となり、太平洋戦争勃発直後の12月10日各市・村会はいっせいに合併議決し、翌1942年1月3か村を廃しその区域全部を尼崎市に編入するという県告示があり、2月11日合併が実現した。3月6日、旧市村それぞれを一選挙区として、市会議員選挙が実施された。

執筆者: 山崎隆三

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