尼崎城下

あまがさきじょうか
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1617年(元和3)戸田氏鉄は入封まもなく尼崎に新城を築くべき幕命をうけ、城と城下町の建設にかかった、城地は庄下川を西の限りとし、それより東の地、南は海、東西の両流を洫川〔いじかわ〕でつないで北辺の境とした、方3町程度の範域を城地とした。その東は旧町場で、辰巳風呂辻市庭別所の4町と川を隔てて北に大物町があったが、さらに城地西方の砂浜に新たに東屋敷西屋敷といわれる侍屋敷が、そしてその北に寺町、南に町場として宮町中在家町が造成された。城と侍町・寺町・町場7町で城下町が形成されたのである。その後寛永期青山氏の時代(1635~)になって城の南の小島と葭島とに築地町が造成され、ここに町場は8町となった。大坂から西宮に通じる中国街道は、当初は神崎村から南下して旧町場に入り、城地の南縁(海岸)を伝って西進したとみられるが、築地町完成後は別所町から南の小島に至り、大黒橋を渡って築地町を西進し、戎橋を北へ渡って城地の西に出るという、城を南に迂回するコースをとった。

執筆者: 八木哲浩

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