築地町

つきじちょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  近世以来の尼崎町の町名。1618年(元和4)に開始された近世尼崎城の築城によって旧来の中国街道の道路が分断されたため、当初は別所町から城地の南端を抜けて中在家町へと通過していたが、戸田氏に代わって入封した青山氏(幸成系)1652年(承応元)に街道を城の南側の小島と葭島に付け替える工事を計画し、別所町の岸田屋孫左衛門・嶋屋吉衛門の両名に街道筋の町場建設を命じた。二つの島が大黒橋で結ばれ、整然とした碁盤型街路の築地町がこの両島のうえに完成したのは1664年(寛文4)のことであった。北の浜筋には材木屋がならび、南の大浜地先は網干し場で近くには漁師が集住していたと推測される。「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口1,546.303間とある。氏神は初嶋大神宮。ほかに近世には浜恵比須があった。修験道の宝珠院がのち真言宗醍醐派となり、さらに潮江に移転した。

  1930年(昭和5)の町名改正により築地北浜・築地本町・築地中通・築地南浜・築地丸島町となった。寺町とともに旧城下町の町並みをもっともよく今に伝えている。

執筆者: 地域研究史料館

  地形がほぼ平坦な築地地区は工場の地下水汲み上げによる地盤沈下のため全域が海抜ゼロメートル以下の地帯となっており、さらに沖積層に覆われているため地下水位が高く、1995年(平成7)1月17日の阪神・淡路大震災によって地盤の液状化現象が発生した。このため地区内約1,100世帯中10戸が全壊、292戸が半壊し、80%近くの家屋が不等沈下により傾斜するなど、大きな被害があった。震災直後から社会福祉協議会などが中心となって被害の復旧に取り組むとともに、2月26日には地元住民による築地地区復興委員会を発足させた。同委員会は時間をかけて復興計画を策定することを主張し、尼崎市もそれを受け入れ兵庫県と折衝した結果、築地は被災地で唯一、被災市街地復興特別措置法(2月17日閣議決定、26日公布・施行)による復興推進地域指定及び復興都市計画決定の期限として国・県が定めた3月17日以降に指定・決定を受けた。8月8日に地区内13.7ヘクタールに対する復興推進地域指定及び土地区画整理事業を計画決定、9月14日に住宅地区改良事業の地区指定が決定されている。住宅地区改良事業による公営集合住宅に借家人が住み続けられる仕組みを作り、なおかつ区域内に戸建ても含めた民間住宅が建てられるよう土地利用用途を指定する手法がとられた。10月18日、築地地区復興委員会は安全で安心な住みよいまちづくり、築地らしい歴史を活かしたまちづくりを柱とする復興まちづくり案を市に提出し、市はこれを受けて地区全域にわたる平均1.5mの土地かさ上げを行ない、住宅地と工場の分離や歴史的景観に配慮したまちづくりを進めた(平成19年11月30日換地処分公告完了)。震災2か月後の3月17日までの計画決定が原因のひとつとなって、住民と行政、あるいは住民同士の対立がしばしば生まれた被災地のなかで、地域の合意づくりと住民参加型のまちづくりの成功例として、築地地区の復興事業は高く評価されている。

執筆者: apedia編集部

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