薬師寺氏

やくしじし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  室町・戦国時代の武将。もと下野国大掾〔だいじょう〕小山氏の支族で、鎌倉幕府の御家人として西国に下り、1328年(嘉暦3)には摂津国輪田荘地頭に薬師寺貞義の名がみえる。観応の擾乱〔じょうらん〕ごろ武蔵守護高師直守護代や直義党武士に同氏の名がみえ、同族に足利一門有力守護被官として全国的に活動していた。1399年(応永6)には備中守護細川氏の守護代に、1446年(文安3)には摂津国欠郡守護細川持賢の守護代に同族の名が出ている。1470年(文明2)7,8月には椋橋〔くらはし〕城合戦でめざましい功績を立てた細川勝元の被官薬師寺元長が摂津守護代に任ぜられ、以後同氏は細川惣領家の分国摂津に支配を任されることとなった。元長は翌1471年春日社領浜郷以下の押領排除を郡代に命じ、1478年には幕府から武庫恒(常)松・稲垣・西小屋・富松〔とまつ〕・浜郷・倉垣等諸村の押領排除を指令されている。元長は1501年(文亀元)病死、守護代は子元一が継いだ。しかし元一は1503年守護細川政元の養子として阿波の細川澄元を迎えることに成功、その功を頼んで翌1504年(永正元)9月政元に背き山城淀城で挙兵した。反乱は直ちに鎮圧され元一は刑死、弟の長忠が守護代を継承した。その後も摂津守護代は長忠・国長と同族で嗣がれたが、守護が細川晴元となって以降、越水城(現西宮市)城主三好長慶が台頭し、1539年(天文8)長慶は摂津西半国の守護代となって薬師寺氏と相並ぶ地位に立った。こうして三好氏の興隆の前に薬師寺氏は没落を余儀なくされた。

執筆者: 今谷明

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