関西普通学堂

かんさいふつうがくどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1910年(明治43)の韓国併合後、朝鮮人の来日が1917年(大正6)ころから急増、市の北西部(現武庫地区)にも武庫川改修など職を求めて来住。一時移住もあったが、再び来住して定住しその子弟が学齢期に達して教育問題が村の課題となり、学校・村当局・在日朝鮮人の有力者が話し合い、民家を借りて私立小学校(修業年限6か年)を1935年(昭和10)4月1学級・教員1人・児童数12~3人で開校。学校名も「学堂」(=学級)の朝鮮語的表現を使い、学堂の経費は兵庫県内鮮協会と村の補助金および授業料(月額30銭)を財源としていた。その後児童数1935年(1・2学年)64人、1636年(1~3学年)110人、1937年(1~4学年)184人、1938年(1~5学年)215人と増加したが、1939年3月には武庫小学校分教場(尋常科)第1回卒業生として送りだし、同年6月武庫尋常高等小学校の分教場となる。戦後、朝鮮人初級学校として在日朝鮮人連盟の管理のもとで、民族教育が行なわれたが、1948年1月文部省、同年4月兵庫県軍政部(占領軍)より学校閉鎖指令があり、1949年に武庫小学校分校となった。1966年には廃止された。

執筆者: 末方鐵郎

参考文献

  • 『尼崎市戦後教育史』 1974
  • 『尼崎部落解放史』 1988 尼崎同和問題啓発促進協会
  • 小野寺逸也「一九四〇年前後における在日朝鮮人問題の一斑」『朝鮮研究』 59 1967

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