1780年代

天明7年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀

  10年紀: 1750年代 1760年代 1770年代 - 1780年代 - 1790年代 1800年代 1810年代

  各年: 1780年 1781年 1782年 1783年 1784年 1785年 1786年 1787年 1788年 1789年


  1780年から1789年までの10年間を指す。

1780年代の年表

  • 1780年(安永9)
  • 1781年(天明元・安永10)
    • 2月8日 - 浜田村の本百姓24人が旧来からの宮衆に相談もなく氏神の神事と供物負担を村中年番に改めるよう決めたため、旧宮衆が藩に訴え出た。
    • 6月 - 大物村の蜆取り漁師総代は、尼崎城下周辺および碇水尾魚市場近辺などへの他領漁民の入漁取締りを藩に嘆願した。
    • 7月4日 - 武庫川原で尼崎藩奥山流の砲術訓練が藩主の上覧をうけて行なわれ、鉄砲と花火の見物に14、5万人が群集した。
    • 10月28日 - 大坂の上荷船・茶船仲間が、尼崎渡海船に今後7年間は幕府運上銀上納に助力してほしいと申し入れた。
  • 1782年(天明2)
    • 1月23日 - 尼崎渡海船の船持ち・船乗たちは、大坂の上荷船・茶船仲間と今後7年間は尼崎船の米荷物についてのみ小廻り賃増額を認める証文を取りかわした。
    • 9月 - 尼崎城下の町人によって開発された中浜新田の検地が行なわれ高50石が道意新田に高入れされた。
    • 12月16日 - 綿の不作にさいして尼崎藩領綿作農民が年貢減免を求めて武庫川堤に群集し、藩に直接嘆願しようと数百人が城下の出屋敷堤までつめかけた。
    • 12月19日 - 尼崎藩は、先の騒擾に対して村々へ手宛米を支給すると発表し、大物組時友組富松組の地回り3大庄屋組に2,600俵、瓦林組に2490俵が下された。
    • 12月 - 天満青物問屋は、額田村など北在村々が大坂への下屎取り船を利用して運ぶ大根を市場以外の店で売買することの停止を大坂町奉行所へ訴えた。
  • 1783年(天明3)
    • 3月 - 又兵衛新田地内に開発された大浜新田の検地が行なわれた。
    • 6月7日 - 幕府は、西宮駅助郷村々の願いによって33か村の年間助郷役を2,800人までに限ると定め、追って武庫郡・川辺郡のうち69か村を加助郷村に指定した。
  • 1784年(天明4)
    • 4月 - 幕府は、伏見船元締坪井喜六らの猪名川通船願いを許可し、下河原村から戸之内村までの通船を認めた。
    • 8月4日 - 尼崎藩は、農民が年貢皆済以前に米を売ることの禁止を触れた。
    • この年 - 尼崎藩は、東高洲新地西高洲新地新田開発を尼崎総町のうちから指名した10人に上納銀120貫で引き受けさせることにした。
  • 1785年(天明5)
    • この年 - 浜田村の新旧宮座が和談の証文を取りかわし、新宮座は旧座に続いて神事に参加できることになった。
  • 1786年(天明6)
    • 9月 - 幕府は酒造高を二分の一に制限した。
  • 1787年(天明7)
    • 5月13日 - 米価高騰により大坂で打ちこわしが発生し、伊丹でも打ちこわしの風聞があった。
  • 1788年(天明8)
    • 2月25日 - 武庫・川辺・豊島郡の161か村総代は、尼崎西宮兵庫などの干鰯屋以外の富裕商人による肥類売買禁止、干鰯屋その他の粕類買占め禁止、在方絞り油屋の菜種売買独占の禁止などを大坂町奉行所へ訴えた。
    • 5月29日 - 洪水のため西新田村支配の武庫川堤が切れ、中浜新田に被害が出た。
    • 6月12~16日 - 幕府の私領巡見使尼崎藩領などを巡見した。
    • 6月 - 尼崎藩は、米価高騰のため領内の町村ともに困窮し人口も減少しているとして、11か条の倹約令を触れた。
    • この年 - 尼崎藩は在郷の商人名・業種を調べ、米小売仲買などの営業を禁じた。
    • この年 - 尼崎城下の町人の人口は1万2,008人、家数は1,649軒であった。
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