1800年代

文化1年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀

  10年紀: 1770年代 1780年代 1790年代 - 1800年代 - 1810年代 1820年代 1830年代

  各年: 1800年 1801年 1802年 1803年 1804年 1805年 1806年 1807年 1808年 1809年


  1800年から1809年までの10年間を指す。

1800年代の年表

  • 1800年(寛政12)
    • 8月 - 尼崎藩は、年貢米の俵それぞれに俵詰めに立会った庄屋・年寄・枡取りの名札を入れることなど3か条を触れた。
    • この年 - 瓦林組武庫川その他の河川の常例土砂留め普請を組の責任において農業の合間に行ないたいと願い出て許された。
  • 1801年(享和元)
    • 8月 - 村は、先に藩へ訴え出た分村訴訟の裁決が下っていないので当年の年貢の賦課・取立ては本村の今北村ではなく、仲裁人に命じられたいと願い出た。
    • 9月13日 - 村と今北村は、分村争論和談の証文を取りかわし、分村はしないが両村の間では芋村を一村並みに扱うと定めた。
  • 1802年(享和2)
  • 1803年(享和3)
    • 8月 - 野間井組の井親と井子村々は、旱ばつのさいの引水について和融証文をかわした。
    • 10月6日 - 尼崎藩は払い米値段引き立てのために、米会所を設けて入札日を定め、在郷での米小売仲買を解禁した。
    • 10月 - 幕府は酒造制限令を解除した。
  • 1804年(文化元)
    • 2月29日 - 尼崎藩は、13か条の倹約令を3か年の期限付きで城下の町人へ触れた。
    • この年 - 尼崎藩は、衣類など身の回り品の制限をはじめ百姓の生活全般に統制を加える法令を村々へ達した。
  • 1805年(文化2)
    • 8月11日 - 尼崎藩は、農民が年貢皆済以前に米を売払うことの禁止など蔵納め米・郷払米のこしらえや納期について触れた。
    • 8月25日 - 川辺・武庫両郡83か村は、菜種・綿実の販売の自由および在々絞り油屋による油の小売許可を大坂町奉行所に訴えた。
    • 8月25日 - 河内国の秋元但馬守領44か村・狭山藩領24か村が菜種・綿実の販売の自由を大坂町奉行所へ訴え出た。
    • 8月27日 - 摂津・河内両国の568か村は、8月25日の訴願取り下げにあたり絞り油屋の増長によって百姓が困窮しないよう願いの趣旨を聞きいれられたいと訴え出た。
    • 10月2日 - 幕府測量方の伊能忠敬の一行が、神崎村から神崎川筋を測進して尼崎城下へ入った。
    • 10月5日 - 幕府測量方の伊能忠敬の一行が、尼崎町から西宮町に向けて出発した。
    • 12月10日 - 尼崎藩主松平忠告が没した。
  • 1806年(文化3)
  • 1807年(文化4)
    • 9月11日 - 高洲新地の地主たちは、西高洲新地の開発を放棄して藩に返上することを許された。
  • 1808年(文化5)
    • 3月1日 - 伊能忠敬の一行が神崎村から小中島猪名寺村などを測量し、伊丹町へと向かった。
    • 3月 - 上田秋成が神崎遊女宮城を主人公とする「宮木が塚」を著した。
    • 8月 - 潮江村の幕府直領方庄屋・年寄は、旗本滝川氏領方の庄屋が直領方の下作百姓・奉公人をそそのかして支配を乱すのを停止してほしいと滝川氏に願い出た。
    • 10月22日 - 尼崎藩は能勢・川辺郡のうち猪名川筋の土砂留め普請を命じられた。
  • 1809年(文化6)
    • 6月14日 - 西昆陽村地内の武庫井組の出水の利用について、武庫井4か村と西昆陽村が証文を取りかわした。
    • この年 - 俳句集『人生歓喜時』が編まれた。『尼崎春字徒』の春台・春人・春皐・春渚・春来・春思の句がみえる。
案内
広告
検索

  
ヘルプ
ツール
索引