白井神社

しらいじんじゃ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  市域北東部の穴太法界寺善法寺額田に鎮座する神社、天之手力男命〔あめのたぢからおのみこと〕を共通の祭神とする。

  四社の創立・由緒については不詳。1692年(元禄5)の「寺社御改付込写帳」(岡本紀士生文書)は、穴太の白井神社を「白井天王」と記す。1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)も、額田の白井神社が18世紀後期ころに「白井天王」であったことを記すのみである。18世紀前期(享保年間・1716~1736)ころに発行された『摂津志』は、前者を「白井天王祠穴太村に在り隣村亦各建祠祭之」とある。同書によれば、このころ穴太をはじめとする四か村が祠をつぎつぎに建て、白井天王を祀ったことが知られる。勧請〔かんじょう〕の経過について、『摂津名所図会』巻6は、穴太の「白井天王祠」の祭神を「白山権現」と記し、北陸の霊山の雄、白山権現を祀る白山修験者の布教によって、18世紀前期ころに流行神として広まったことが推測される。一説には、この地域は古代における渡来人系氏族のひらいた村で、穴太の氏神白井神社は新羅神社の訛伝と考えられている。額田の白井神社は1915年(大正4)に神崎須佐男神社に合祀、1948年(昭和23)旧奉斎地に遷座された。近世から穴太の白井天王祠は「歯神」として霊験があると伝えられ、広く信仰されていた。前掲『摂津志』や『摂津名所図会』巻6には、歯の病を祈願するとたちまち平癒すとある。同社の石の鳥居には「天保11年庚子9月吉日大坂天満世話人」と銘文が刻まれており、近世後期には大坂方面にまで信者の講がつくられていた。現在、鯰の絵馬が多く奉納されている。

執筆者: 豊島修

参考文献

  • 落合重信「地名からみた尼崎地域」『地域史研究』第1巻第3号 1972
  • 落合重信「地名からみた尼崎地域(続)」『地域史研究』第2巻第3号 1973
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