第10師団

だい10しだん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  日清戦争後の師団倍増で12個師団制となった時、新設第10師団が姫路に置かれた。当師団は満州事変では建国直後の満州国で掃討作戦に従事し、日華事変では北平〔ペイピン〕から津浦線沿いに南下、台児荘〔タイルーチャン〕の苦戦を経て徐州〔シューチョウ〕会戦に参加した。昭和の軍制改革では関東軍所属となって満州国佳木斯〔チャムス〕に永駐と決まり、1940年(昭和15)8月、40年にわたる衛戍地姫路に訣別した。そのあとに留守師団業務と師管区業務とを担当する第54師団が置かれて、通称「姫路師団」と呼ばれたが、やがてアメリカ軍の本土上陸に備えて長野県松代に地下大本営の設営が進むと、その大本営防衛のため姫路師団が松代に移駐して長野師団と称した。こうして姫路には常設師団がなくなり、“軍都姫路”の名は消滅した。

執筆者: 宮川秀一

  日清戦争後の第10師団(姫路)等増設にともない、1896年(明治29)3月に徴兵区を定める陸軍管区表が改訂された。これにより、現尼崎市域の壮丁は従来の第4師団第20連隊(大阪)への入営に替わって第10師管神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。1898年11月には師団司令部が姫路城内に開設されている。1904年年開戦の日露戦争において、第10師団は遼東半島に上陸し独立師団として北上の後、第5師団(広島)とともに第4軍を編成し析木城〔シィムゥチォン〕・遼陽〔リィァオヤン〕・奉天〔フェンティエン〕の会戦に参加した。日露戦争後に師団増設が行われ、1907年9月に陸軍管区表が改訂された。その結果、現尼崎市域のうち川辺郡域は第4師管(大阪)篠山連隊区に属し、歩兵は第4師団歩兵第70連隊(篠山)に入営、また武庫郡域は第10師管(姫路)神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。1915年(大正4)12月、朝鮮に2個師団が増設され、第4師管及び第10師管から第20師管(京城)に要員が供給された。これらの兵は歩兵第77連隊(平壌)及び第78連隊(京城)に属したものとみられる。1925年5月、軍縮により4個師団が削減された。これにともない同年4月に陸軍管区表が改訂され、現尼崎市域は第4師管(大阪)神戸連隊区に属し、歩兵は第4師団第70連隊(篠山)に入営することになった。1940年(昭和15)の軍制改革後、第10師管が姫路師管となるとともに一府県一連隊区となり、姫路師管管下の兵庫県域を対象とする連隊区が1940年1942年に神戸連隊区に統合された。現尼崎市域の壮丁は姫路師団において招集・訓練の後外地の各野戦師団に適宜配属された。鳥取連隊で初年兵教育を受けた者も多かったとみられる。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 宮川秀一「兵庫県における陸軍管区の変遷」『地域史研究』第11巻第1号 1981
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