徴兵区

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出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1873年(明治6)1月に徴兵令が公布され、同年7月に鎮台条例を制定、軍管区制度が定めれらた。これにより、大阪鎮台が第4軍管を統括し、管下に第8師管(営所大阪)、第9師管(営所大津)、第10師管(営所姫路)がおかれた。1874年4月、徴兵令による最初の徴兵が行われ、兵庫県域の壮丁は大阪鎮台管下の伏見営所(分営)、姫路営所、兵庫営所に適宜入営、同年5月には歩兵第8連隊(大阪)、第9連隊(大津)、第10連隊(姫路)編成が編成された。

  1883年12月に徴兵令が改正され、各師管の軍管区表により徴兵区が定められた。この結果、1884年以降、現尼崎市域を含む兵庫県域の壮丁の歩兵はすべて第4軍管(大阪鎮台)管下の第8師管(姫路営所)歩兵第10連隊に入営することになった。1888年5月、鎮台が廃止され師団が設置された。これにより、国内内乱鎮圧を目的として編成された鎮台に替わり、師団長(陸軍中将、親補職)以下歩兵4個連隊、砲兵1連隊、騎兵・工兵・輜重兵各1大隊からなる師団が野戦における独立戦略単位として編成された(この編成はその後時期によって変化する)。この結果、大阪鎮台は第4師団となり第7旅管(大阪)と第8旅管(姫路)を統括、兵庫県は第8旅管に属することになった。現尼崎市域は第4師団第8旅管の神戸大隊区に属し、歩兵は第20連隊(大阪)に入営することになった。1894年開戦の日清戦争においては、歩兵第20連隊が属する第4師団が実戦に参加することはなかった。

  日清戦争後、陸海軍の拡張が行われた。陸軍は6個師団が増設され、これにより第10師団(姫路)が誕生した。1896年3月に陸軍の管区表が改訂され、現尼崎市域は第10師管神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。1898年11月には師団司令部が姫路城内に開設されている。1904年開戦の日露戦争において、第10師団は遼東半島に上陸し独立師団として北上の後、第5師団(広島)とともに第4軍を編成し析木城〔シィムゥチォン〕・遼陽〔リィァオヤン〕・奉天〔フェンティエン〕の会戦に参加した。

  日露戦争後に師団増設が行われ、1907年9月に陸軍管区表が改訂された。その結果、現尼崎市域のうち川辺郡域は第4師管(大阪)篠山連隊区に属し、歩兵は第4師団第70連隊(篠山)に入営、また武庫郡域は第10師管(姫路)神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。1915年(大正4)12月、朝鮮に2個師団が増設され、第4師管及び第10師管から第20師管(京城)に要員が供給された。これらの兵は歩兵第77連隊(平壌)及び第78連隊(京城)に属したものとみられる。1925年5月、軍縮により4個師団が削減された。これにともない同年4月に陸軍管区表が改訂され、現尼崎市域は第4師管(大阪)神戸連隊区に属し、歩兵は第4師団第70連隊(篠山)に入営した。1927年(昭和2)4月には徴兵令が全面改正され名称が兵役法と変更された。これにより徴兵区が細かく規定されるが、兵庫県の陸軍管区に変更はなかった。日中戦争開始後の1938年4~6月に第4師管(大阪)の予備役・後備役兵を招集し第104師団を編成、管下の歩兵第108連隊(大阪)と歩兵第170連隊(篠山)が中国の戦地に派遣された。1940年の軍制改革後、第10師管が姫路師管となるとともに一府県一連隊区となり、姫路師管管下の兵庫県域を対象とする連隊区が1940年1942年に神戸連隊区に統合された。現尼崎市域の壮丁は姫路師団に招集・訓練の後外地の各野戦師団に適宜配属されることになった。鳥取連隊で初年兵教育を受けた者も多かったとみられる。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 宮川秀一「徴兵令による最初の徴兵と臨時徴兵」『歴史と神戸』第26巻第2号 1987
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