第4師団

だい4しだん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  陸海軍の中枢を大阪にという兵部卿大村益次郎の意図で設立された兵部省出張所・兵学寮等の施設も、砲兵工廠を残すのみで消え去り、日本最初の徴兵(辛未徴兵)が大阪陸軍所に入営したのも1871年(明治4)だけでとだえた。1873年徴兵令につづく鎮台条例で、大阪陸軍所は大阪鎮台となり、翌1874年には徴兵令による最初の徴兵が入営した。

  1877年の西南戦争ではここが前進基地となり、1888年の師団制の発足によって第4師団と称した。師団とは歩兵4連隊、騎兵・砲兵各1連隊、工兵・輜重〔しちょう〕兵各1大隊からなり、大陸の野戦において独立して戦いうる戦略単位である。この新編制での最初の日清戦争では、第4師団は大連湾に上陸したのが講和条約調印の翌日であったから、戦うことなく終ったが、日露戦争では第2軍に属し、金州〔ジンゾウ〕・遼陽〔リャオヤン〕・奉天〔フォンテン〕に戦った。

  降って日華事変では満州に駐留、やがて華中戦線に移って長沙作戦に従事、今次大戦に入ってはフィリピンに進撃、バターン半島攻略の苦闘ののち一旦帰国、再度の動員でスマトラに派遣、終戦時にはタイのランバンにあった。

執筆者: 宮川秀一

  1884年(明治17)、徴兵区を定める陸軍の軍管区制度が整備され、現尼崎市域を含む兵庫県域の壮丁はすべて第4軍管(大阪鎮台)管下の第8師管(姫路営所)歩兵第10連隊に入営することになった。1888年5月、鎮台が廃止され師団が設置された。これにより、国内内乱鎮圧を目的として編成された鎮台に替わり、師団長(陸軍中将、親補職)以下歩兵4個連隊、砲兵1連隊、騎兵・工兵・輜重兵各1大隊からなる師団が野戦における独立戦略単位として編成された(この編成はその後時期によって変化する)。この結果、大阪鎮台は第4師団となり第7旅管(大阪)と第8旅管(姫路)を統括、兵庫県は第8旅管に属することになった。現尼崎市域は第4師団第8旅管の神戸大隊区に属し、歩兵は第20連隊(大阪)に入営することになった。1894年開戦の日清戦争においては、歩兵第20連隊が属する第4師団が実戦に参加することはなかった。日清戦争後、陸海軍の拡張が行われた。陸軍は6個師団が増設され、これにより第10師団(姫路)が誕生した。1896年3月に陸軍の管区表が改訂され、現尼崎市域は第10師管神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。日露戦争後に師団増設が行われ、1907年9月に陸軍管区表が改訂された。その結果、現尼崎市域のうち川辺郡域は第4師管(大阪)篠山連隊区に属し、歩兵は第4師団第70連隊(篠山)に入営、また武庫郡域は第10師管(姫路)神戸連隊区に属し、歩兵は第10師団第39連隊(姫路)に入営することになった。1915年(大正4)12月、朝鮮に2個師団が増設され、第4師管及び第10師管から第20師管(京城)に要員が供給された。これらの兵は歩兵第77連隊(平壌)及び第78連隊(京城)に属したものとみられる。1925年5月、軍縮により4個師団が削減された。これにともない同年4月に陸軍管区表が改訂され、現尼崎市域はすべて第4師管(大阪)神戸連隊区に属し、歩兵は第4師団第70連隊(篠山)に入営することになった。1927年(昭和2)4月には徴兵令が全部改正され兵役法に名称変更、これにより徴兵区が細かく規定されるが兵庫県の陸軍管区に変更はなかった。日中戦争開始後の1938年4~6月に第4師管(大阪)の予備役・後備役兵を招集し第104師団を編成、管下の歩兵第108連隊(大阪)と歩兵第170連隊(篠山)が中国の戦地に派遣された。1940年の軍制改革後、第10師管が姫路師管となるとともに一府県一連隊区となり、姫路師管管下の兵庫県域を対象とする連隊区が1940年1942年に神戸連隊区に統合された。現尼崎市域の壮丁は姫路師団に招集・訓練の後外地の各野戦師団に適宜配属されることになった。鳥取連隊で初年兵教育を受けた者も多かったとみられる。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 『新修大阪市史』第5巻 1991・第7巻 1994
  • 宮川秀一「兵庫県における陸軍管区の変遷」『地域史研究』第11巻第1号 1981

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