日本労農党

にほんろうのうとう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1926年(大正15)12月9日、労働農民党の分裂に際し、左派に対する門戸開放に反対して多くが脱退したが、日本農民組合の反左派と総同盟の反右派が合同し中間派無産政党として発足した。尼崎では総同盟尼崎連合会を除名された藤岡文六らが同党関西支部を結成するとともに、総同盟傘下の武庫川・蓬川・兼重・薄板の各支部を率いて尼崎連合会を脱退させ尼崎労働組合を結成、組合同盟への参加を表明した。乾鉄線争議では、同党尼崎支部と労働党摂陽支部との共闘が成立した。同党は3.15事件後左翼勢力が弱体化した機会に労働運動の主導権獲得を目論み、指導者を奪われていた日本農民組合と同党の影響下にあった全日本農民組合とを合同させた全国農民組合を傘下に収め、無産政党の無条件合同を提唱した。1928年(昭和3)4月現在尼崎支部は支部長藤岡、書記長山本久米喜、登録党員数30人。同年9月党関西事務局によって労働者の政治学校「関西軍官学校」が尼崎で開校した(講師阪本勝・笠信太郎ら)。12月20日無産大衆党、日本農民党のほか地方政党を加えた7党で日本大衆党の結成へと進んだ。

執筆者: 久保在久

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