地主制

じぬしせい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  近世中期に形成されはじめた地主小作関係が明治維新後全国的に拡大普遍化し、第1次大戦前後最高度に展開し、他方において発達した資本主義経済と結合して地主の経済力が安定強化し、第2次大戦期にいたるまで農村において地主が社会的経済的に支配する体制が存続した。これが地主制である。

  近世における地主小作関係の形成は、大別してつぎの3つの型がある。第1は、尼崎地方をふくむ摂津の川辺郡・武庫郡など農業生産力が高く商品経済の発達した地方に一般的なもので、農民相互の土地売買によって上層農民が土地所有を拡大し、そのうち自家経営の限界以上の土地を周辺の農民に貸し付けることによって形成されるものである。たとえば武庫郡西昆陽村氏田家では1792年(寛政4)所有田畑3.46町のうち3.03町を自作し残りの0.43町を5人の小作人に5.71石の小作米で貸し付けている。この型の小作関係は地主の所有地が大きいほど拡大するとはいえ、地主所有地の拡大には限界があり極端な大地主はあらわれない。第2の型は、農業生産力が低く商品経済化がおくれている地方で貧窮化した農民が土地を質入れし、その質取主である商人などとの間に質地地主小作関係が広範に形成される場合で、200町以上1,000町にもおよぶ大地主もしばしば出現する。近世の尼崎地方にはこの型のものはない。第3の型は、新田開発において開発主体となった商人などが地主(底土権者)となり開発に従事した農民などがその小作人(上土権者)となる場合で、尼崎南部の又兵衛新田新城屋新田を開発したかあるいは開発者から買取った尼崎の商人泉屋(本咲家)は明治初年80町の大地主となっていた。こうして近世の尼崎地方では第1と第3の型の地主小作関係が形成されていた。

  明治維新後地租改正によって地租が一定金額に固定され、他方小作料は現米であるので米価の上昇によって地主所得は増加し、地主はそれをもってさらに土地所有を拡大し、5町程度の地主はほとんどの村にみられ、なかには明治末期10町以上をもつ友行村岡治〔おかじ〕家のような近世にはみられなかった規模の地主が出現している。また本咲家のような新田地主の系譜のもののほか都市の商人が農村に進出して大地主となるものが出現する(近世の第2の型に近い)。たとえば尼崎の質商・事業家の梶源左衛門1898年(明治31)には少なくとも40町の地主であり、その他大阪・尼崎・伊丹の居住者で尼崎町をはじめ市域各地に土地をもつ不在地主が明治中期以降急増している。さらに地主間の土地売買も盛んとなり、たとえば尼崎の事業家尼崎伊三郎は地主から土地を買集めて1901年には75町以上、1924年(大正13)には183町、関係小作人614人という屈指の大地主となった。このような地主制の発展を小作地率(小作地/総耕地)の変化からみると、たとえば小田立花園田3か村の合計で1901年50.7%から1933年(昭和8)には70.1%と深まり、全国的水準よりはるかに高く地主制の発展した地域であることを示している。しかしその後耕地の工場用地化と小作争議の激化によって地主は次第に土地を手離して株式・公債等に投資するものが増加した。さらに、第2次大戦中の小作料統制令と供出制度によって地主の小作人にたいする支配力は弱化し、戦後の農地改革によって最終的に解体した。

執筆者: 山崎隆三

参考文献

  • 山崎隆三『地主制成立期の農業構造』 1961 青木書店

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