塩野義商店杭瀬工場

しおのぎしょうてんくいせこうじょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1919年(大正8)、40年の歴史を持つ薬種問屋塩野義三郎商店と、同系の塩野製薬所が合併して、資本金150万円の(株)塩野義商店が新発足した。杭瀬工場はその製造部門の一つとして、1922年5月小田村今福にあった神戸醋酸工業(株)今福工場(敷地3万1,000m2)を17万5,000円で買収したもので、発足時の従業員は職員6名、女子工員20数名であった。新工場の生産品目は当初、同社が注力していた植物成分抽出製剤の主力ジギタミン、塩酸シノメニンであったが、1923年1925年と工場が増設され、生産品目も増えるにつれて製薬部門の主力工場になってゆく。しかし生産技術はまだ低く、浸出器にはドラム缶を使い、搾り機でエキスをしぼり出すという状況であった。また1927年(昭和2)には同工場敷地内に唯一の鉄筋ビルが建ち、製薬部研究所が新に発足したが、薬理研究の面でも自社製品の効力検定ができるという程度であったという。

  当社発足のころから続いていた慢性不況のもと、業績も一進一退をつづけていたが、1931年ころからは解熱剤・血圧降下剤・各種のホルモン剤などの新薬の開発に力が注がれ、売上も1933年を境に伸長し始めた。杭瀬工場の規模も拡大し、1934年に258名だった従業員は1936年402名、その内訳は職員101・男工236・女工65であった。

  太平洋戦争勃発以降は軍管理工場に指定され、1942年4月には国民徴用令によって全員が自由意志による退職を禁止され、軍需用薬品の増産に従事した。1943年塩野義製薬(株)と改称。1945年6月15日の空襲により工場建屋18棟が被災し、26日再度の空襲では爆弾2発の直撃によって8人が死亡する被害を蒙ったが、数か月後には残った原材料をもとに操業が再開された。

執筆者: 名和靖恭

参考文献

  • 『シオノギ百年』 1978
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