大庄屋

おおじょうや
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎藩では、戸田青山の時代(16171711)には郡右衛門と称したが、1711年(宝永8)に入封した松平のとき、入封まもなく、これを大庄屋と改称した。藩側の領村支配の職制である郡代・代官・諸奉行の指揮下にあって、数か村ないし30か村程度の村々(の庄屋)を統括することを任とした村役人である。郡右衛門の時代には、組は川辺郡(城下尼崎を除く)に3組(地廻り組)、武庫・菟原〔うはら〕郡に各2組、八部〔やたべ〕郡に1組(以上中灘大灘組)、計8組があった。大庄屋の時代になって、藩領の減少から、菟原・八部両郡は合わせて2組となり、1組減じた。組は郡右衛門・大庄屋の居住する村の名を冠して長洲組生津組などと称した。1769年(明和6)武庫・菟原・八部3郡の海岸部24か村が公収され、替え地として播磨国多可・宍粟〔しそう〕・赤穂3郡のうちにおいて71か村が与えられた。これにともない村数の減じた武庫郡は組数1組に、菟原・八部も2郡で1組に減じ、地廻り3組と合わせて摂津における組数は5組となったが、播磨の飛び地では宍粟・赤穂郡各2組、多可郡1組が新設された。その後1828年(文政11)、宍粟郡の飛び地31か村のうち21か村が公収され、その替え地として摂津の川辺・武庫・有馬郡において13か村が与えられた。このときには宍粟郡で1組(岩野辺組)減少したが、新領13か村は地廻り3組と武庫郡の組(瓦林組)に分散編入され、摂津における組数に変化は生ぜずそのまま廃藩に至った。

執筆者: 八木哲浩

参考文献

  • 岸添和義「尼崎藩の大庄屋制度について」『地域史研究』第35巻第2号 2006

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