市庭町

いちにわちょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中世以来の尼崎町の町名。史料上の初見は1445年(文安2)「兵庫北関入船納帳」。市庭という地名は、中世尼崎町を南北に区切る大道をはさんで、大覚寺の東正面に門前町と海港市の両方の性格を兼ね備えた市場が形成されたことに由来する。鎌倉時代には大覚寺敷地内であったが、南北朝時代ころから商人の定住する独立した町として拡大発展し、戦国時代には市庭南町という地名も見られるようになった。これらの商人が尼崎地下人として、市場の運営や町の自治にあたったものと思われる。

  近世には、町の大部分が町人の居住する町場であったが、城に接する一部は侍屋敷となった。「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺〔こんれんじ〕旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高68.24石、地子米34.12石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口289間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳/同前)には家数89軒とある。氏神は市蛭子〔いちえびす〕神社であったが、1915年(大正4)宮町貴布禰神社に合祀された。

  1930年(昭和5)の町名改正と1958年の土地区画整理により東本町の一部となった。別所町との境の本町筋が本町通商店街として栄えたが、1945年(昭和20)家屋疎開の対象となり消滅した。

執筆者: 地域研究史料館

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