戸之内

とのうち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  園田地区の大字。市域東部、かつて猪名川神崎川の合流地点の北、猪名川西岸、猪名川と藻川の間に位置していたが、猪名川改修工事により流路が変わり、現在では猪名川東岸となった。武士の居住地を意味すると考えられる殿ノ内〔とのうち〕という小字があるので、戸之内もこれに由来するとも考えられる。史料上の初見は1594年(文禄3)「善法寺村検地帳」(太田善夫氏文書)で「との内」とある。1605年「慶長十年摂津国絵図」に西倉橋とあり、中世には椋橋西荘に属したと考えられる。椋橋城の地に比定する説もある。

  近世初期には幕府領1626年(寛永3)に大坂城代武蔵国岩槻藩阿部氏(正次系)の領地となり、1648年(慶安元)には大坂定番上総国飯野藩保科氏の領地となり明治に至った。村高は「慶長十年摂津国絵図」に766.395石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に788.395石とある。西明寺井組に属した。氏神は素盞嗚神社、寺院は高野山真言宗治田寺浄土真宗本願寺派祐光寺。治田寺は天平年間の開基と伝えられ、平安末期作と考えられる治田寺阿弥陀如来坐像がある。

  1889年(明治22)以降は園田村1947年(昭和22)以降は尼崎市の大字となった。1923年毛斯綸紡織戸之内工場が開設された。同社は神崎川対岸の加島に通ずるモスリン大橋を架け、園田村に寄付した。工場はのち鐘紡、さらに日本国際航空工業の工場となり、1945年空襲被害を受け閉鎖された。1961年の町名改正・1966年の土地区画整理と1971年の住居表示により戸ノ内町および、東園田町の一部となったほか、一部が弥生ヶ丘町となった。

執筆者: 地域研究史料館

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