朝鮮通信使

ちょうせんつうしんし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  朝鮮建国の王李成桂の使僧覚鎚が、倭寇〔わこう〕の抑止を求めて、1392年(元中9)派遣されて以来、使節はしばしば来朝した。多くは兵庫に入港、陸路上京しており、1421年(応永28)来朝の宋希璟は、帰路尼崎にも寄泊している。その後秀吉の朝鮮侵攻があって両国関係は悪化したが、家康はその修復のため、使節の入朝を促し、1607年(慶長12)それが実現した。以後1617年(元和3)、1624年(寛永元)、1636年1643年1655年(明暦元)、1682年(天和2)、1711年(正徳元)、1719年(享保4)、1748年(延享5)、1764年(宝暦14)と使節が来朝している。その目的は、初め被擄返還なども含まれたが、後は修好の保持、将軍就任の賀などが主になっている。一行は対馬を経て大坂に入港、下船して陸路江戸へ向かった。

  兵庫は御馳走場に指定され、寄港した使節を饗応したが、その接待役は、同地の領主尼崎藩が受け持った。1764年の場合は桟橋を設け、宿舎には浜本陣や民家が割りふられ、給仕人には町民が当たった。往路は1夜の停泊であったが、帰路は強風にあい、6泊している。使節一行470余人が6隻に分乗し、案内役に対馬藩が付き添っていた。尼崎藩は水夫や給仕人への秩持米として400石を支出している。次の1811年(文化8)の時は対馬までで、これが最後となった。桜井神社には尼崎藩松平氏が通信使を迎えて兵庫から大坂へ送ったときの船絵巻が伝えられ、正使を乗せた42挺立ての藩の関船〔せきぶね〕や尼崎兵庫西宮から集められた大小の船が精密に彩色して描かれている。計454艘、浦水主〔かこ〕2,428人が動員されている。

執筆者: 木南弘

参考文献

  • 石阪孝二郎編『朝鮮信使来朝帰帆官録』 1969 兵庫岡方文書刊行委員会
  • 岡方協議会『兵庫岡方文書』第4輯第1巻 1986・第4輯第2巻 1987・第5輯第1巻 1988・第5輯第2巻 1989 神戸市教育委員会
  • 山下幸子「朝鮮信使の来朝」『地域史研究』第6巻第1号 1976
  • 池内敏「近世中期の朝鮮通信使」『地域史研究』第21巻第1号 1991
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