古代編第1節/古代社会の黎明/この節を理解するために(高橋明裕)




弥生時代の集落遺跡・田能〔たの〕遺跡
(左)炎天下での発掘調査 (右)第4調査区の第1号方形周溝〔ほうけいしゅうこう〕南から
千坂吉郎氏撮影、地域研究史料館蔵、薄井昭一郎氏寄贈写真帳より

定住生活の始まり

 この節では、原始時代から6世紀頃までの尼崎市域の歴史を扱います。この地域にいつ頃人が住み始めたのでしょうか。いまから約1万2千年前に氷河期が終わり、地球の気候が温暖化しました。自然環境の変化にともない、土器や磨製石器などを使用した縄文時代が始まります。それ以前の時代は打製石器を使って生活していたので旧石器時代と呼ばれています。旧石器時代の人々の生活は、狩猟や食物採集を生業としていました。気候変動によって始まった次の縄文時代には、海面の上昇や自然環境の変化によって漁労〔ぎょろう〕がそれまで以上に重要な生業となるとともに、食物も豊富化したため、道具の進歩とともに以前よりも定住がすすんだと見られます。
 尼崎市のある西摂〔せいせつ〕平野には、旧石器時代から少しずつ人が住み始めたようです。尼崎市域では、縄文時代の土器がわずかに見つかっているものの、人々の定住の痕跡を明確に示す遺構は確認されていません。
 やがて中国大陸から水稲耕作、金属器、機織りなどの新しい技術が伝わり、弥生文化という新しい文化の時代が始まりました。弥生時代には、それまでの狩猟・採集を中心とした社会と異なり、本格的な農業が始まりました。農業の開始にともない、人々は指導者(首長)を中心に集落をあげて自然環境に積極的にはたらきかけ、低湿地や河口部を苦労しながら開拓していきました。より大きな開拓をすすめるために首長の権力は大きくなり、より広域の集落間の連携は、大規模集落を拠点とする政治勢力を各地に形成していきました(本節1参照)

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弥生時代の遺跡から

 尼崎市域には、弥生時代を研究するうえで注目すべき遺跡がいくつか存在します。代表的なものに、田能〔たの〕遺跡と武庫庄〔むこのしょう〕遺跡があります。田能遺跡は弥生時代の大規模集落であり、水稲耕作の開始とともに多くの人々がこの地に住み始めたことを示しています。同時に、この遺跡の発掘調査と保存の経過も画期的なものでした。また、武庫庄遺跡からは日本最大規模の大型掘立柱建物跡が発見され、周辺地域のなかでも拠点となる政治勢力の存在が判明しました。掘立柱の木材の年輪を調べてわかったことですが、紀元前245年頃のことです。
 『漢書地理志』という中国の歴史書に、紀元前1世紀頃、中国から倭人〔わじん〕と呼ばれた日本列島の人々の様子が伝えられており、列島は百余りの「国」と呼ばれる政治勢力にわかれていたとされます。武庫庄遺跡を中心とする「国」は、そのなかでも有力な政治勢力のひとつであったと言えるでしょう。「漢委奴国王」〔かんのわのなのこくおう〕の金印で知られる北九州の奴国の王は、西暦57年に当時の中国の皇帝に使いを送っています。弥生時代を通じて百余りの「国」は北九州をはじめとして吉備〔きび〕、近畿、東海、北関東など各地の政治勢力に統合されていきました。2世紀後半には「倭国大乱」と呼ばれる各地の政治勢力間の争いが続きました。『魏志〔ぎし〕』倭人伝によると、そのなかから3世紀はじめに、卑弥呼〔ひみこ〕という女王をいただく邪馬台国〔やまたいこく〕が30国ばかりを支配するようになり、中国の皇帝の力を背景に国々を統合しようとしました。邪馬台国の所在地については近畿説と北九州説があります。3世紀後半には、大和(現奈良県)を拠点にした大和王権が成立しています。

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大和王権と猪名野古墳群

 大和王権は列島各地の政治勢力に対して優位に立ち、その政治秩序は近畿地方に登場した前方後円墳に代表されるように、各地の首長の墳墓の規模と様式に反映されるようになりました。こうした首長墓が古墳であり、3世紀半ば頃に始まるこの時代を古墳時代と言い、古墳は消長を見せながら7世紀まで造営されました。尼崎市域では4世紀後半に古墳の築造が始まり、猪名野古墳群という一連の古墳がほぼ首長の世代ごとに築造されていきました。
 大和王権は4世紀後半頃より日本列島を代表して、大陸との外交関係を持とうとします。それは、朝鮮半島のすすんだ技術と鉄に代表される物資を独占できるかどうかが、列島内の優位を保つ鍵だったからです。中国王朝と朝鮮三国の利害関係に応じて、軍事行動も行ないました。5世紀に入ってからも、大和王権の大王〔おおきみ〕は中国王朝への遣使を行ない、中国王朝から列島内支配と朝鮮半島の利害に関する承認を受けていました。これが倭の五王です。5世紀頃は大和王権の中枢勢力の巨大な前方後円墳が河内平野を中心に築造された時代であり、王権の本格的な対外的発展にとって大阪湾沿岸の港湾地域を掌握することが極めて重要視されたと考えられます。倭王「武〔ぶ〕」、後に雄略天皇と呼ばれた大王の時代に、王権の政治組織も整備されました。
 大王は地域の有力首長との政治的関係を緊密化するとともに、中小の首長とその支配下の集団を部民〔べみん〕に組織して職務を分担させました。大陸との関わりで朝鮮半島からの渡来人も多く、大和王権はすすんだ技術や知識を持った人々を部民に組織し、必要に応じて列島各地に移住させました。倭の五王の時代には王権の中枢勢力の間に勢力の交代もあったらしく、王権中枢の交代や渡来人の移住は地域の政治勢力にも影響を与えました。こうした変動のなか、6世紀前半に継体と呼ばれる大王が登場し、西摂地域(摂津国西部)も新たな様相を帯び始めました。

水堂古墳の粘土郭〔ねんどかく〕と遺物出土状況
写真提供:尼崎市教育委員会


昭和37年当時の水堂〔みずどう〕古墳後円部 北から 墳丘上の社殿、西側の周濠跡の草原が見える
写真提供:村川行弘氏


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