近代編第1節/尼崎の明治維新/この節を理解するために(山崎隆三・地域研究史料館)




明治初年、廃城直前の尼崎城(野村小弓氏所蔵写真)
本丸南西隅の伏見櫓〔やぐら〕(中央)と二の丸(左側)を南浜より望む

明治維新政府の成立

 慶応3年(1867)10月、15代将軍・徳川慶喜〔よしのぶ〕が政権を朝廷に返上する「大政奉還〔たいせいほうかん〕」の上表を提出したのに続いて、12月には王政復古〔おうせいふっこ〕のクーデターが行なわれ、天皇のもと倒幕派の公卿〔くぎょう〕や諸藩を中心とする新政権が誕生します。これに反発した旧幕府軍と、新政府軍との間に戊辰〔ぼしん〕戦争が起こりますが、明治2年(1869)5月に函館五稜郭〔ごりょうかく〕の旧幕府軍が降伏して戦争が終結。徳川家を排除した新政権が、ほぼ完全に国内を掌握するに至ります。
 こうして成立した明治維新政府は、旧来の幕藩制支配に替えて、近代的な地方統治システムを徐々に整備していきます。まず慶応4年正月、旧幕府領・親藩〔しんぱん〕領を朝廷領とすることを宣言し、大阪・兵庫においてはそれぞれ「裁判所」を設置して、和泉の一部・摂津・河内の旧幕府領を管轄させます。5月には両裁判所が大阪府・兵庫県となり、さらに親藩領や万石以下の旗本領なども府県の管轄下に組み込んでいきます。
 同時に政府は、諸藩についても職制・財政の改革を実施していきます。幕末維新の政治的・経済的、さらには軍事的混乱のなか、各藩の支配体制や藩財政は崩壊・破綻〔はたん〕状態にあり、加えて国家体制全般にわたる急激な改革が各地で士族や農民による反政府運動を引き起こすなか、藩制を改革して地方支配を立て直すことは、維新政府にとって緊急の課題でした。
 このため、明治元年10月には藩の新たな人事組織制度を定めた「藩治職制〔はんちしょくせい〕」を公布し、職制改革を命じます。続いて明治2年には各藩が領土・人民を朝廷に返上し、あらためて藩主が藩知事に任命される「版籍奉還〔はんせきほうかん〕」を実施し、あわせて藩士身分の再編成と禄制〔ろくせい〕の改革を指示します。さらに明治3年9月には藩の職制と財政の改革を定めた「藩制〔はんせい〕」を布告。尼崎藩においてもこれらに応じた藩制改革が実施され、藩士の禄が削減されるとともに、中士〔ちゅうし〕層(中位クラスの藩士)が新たに設けられた藩の要職に登用されていきました。

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廃藩置県

 こういった藩制改革の一方で、対外的独立の維持・強化を前提に中央集権化を進める政府は、地方統治の混乱と弱体化の是正、強力な支配体制・国家財政基盤の確立をめざして、さらに抜本的な地方制度改革である「廃藩置県〔はいはんちけん〕」を断行します。明治4年7月に詔書を発表し、藩知事を一律に罷免して全国の藩を廃止し、1使(開拓使)3府302県による中央集権的官僚統治に置き換えました。
 これにより、尼崎藩も廃藩となりました。替わって設置された尼崎県は、明治4年11月の府県統合により兵庫県(第二次)に吸収されることとなります。藩兵の解散、商人や領地村々からの借金の処理、旧藩士への旧禄の処分(家禄数年分の現金ないし公債の交付)といった、廃藩にともなう事後処理が順次行なわれたほか、藩の象徴である尼崎城も、明治6年の政府による廃城命令のもと、ほどなく取り壊されました。なお明治5年正月の大阪府と兵庫県の間の管轄区域移動の結果、兵庫県は摂津国西部の川辺・武庫・莵原〔うはら〕・八部〔やたべ〕・有馬の五郡一円を管轄することになりました。

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初期兵庫県の先進的地方制度

 こうして、尼崎藩領や幕府直轄領、旗本領、大坂城代・定番〔じょうばん〕の役知〔やくち〕領などさまざまな領地が入り組んでいた現尼崎市域は、西摂五郡を区域とする兵庫県の管轄下に置かれることになりました。この初期兵庫県においては、県─区─町村という形で近世以来の町村が末端行政単位として位置付けられており、また町村会・区会・県会といった地方民会が全国にさきがけて設置されるなど、全国的に見ても先進的な地方制度が実現していました。その背景には、県令である神田孝平〔たかひら〕の開明性に加えて、近世においてすでに菜種訴願・肥料訴願(上巻近世編第2節7「国訴」参照)をはじめとする村々による広域的連合の経験や伝統があったことや、維新以降の地域構造の変化のなか近世とは異なる町村内の合意形成・意思決定システムの必要性が生じたことなどといった、経済的先進地固有の地域特性が存在していました。
 明治維新政府自身も、こういった兵庫県などに見られる先進事例を採り入れる形で、明治11年には郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則という、いわゆる地方三新法〔さんしんぽう〕を公布し地方制度改革に乗り出します。その目指すところは、この時期勢いを増しつつあった自由民権運動に対抗して地方行政を強化するとともに、近世以来の町村が行政単位として重要であることを再認識した結果、これを行政組織としてふたたび位置付けることにありました。
 なお、明治4年に続いて政府は明治9年にふたたび大規模な府県統廃合を実施。この結果、兵庫県も県域を拡大し、ほぼ現在の県域となりました。

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地租改正

 明治維新期、廃藩置県に続く重要な制度改革として実施されたのが、地租改正でした。その目的は、複雑な近世の土地所有関係と租税体系を整理して土地貢租の統一化を図り、幕藩制下の貢租水準に匹敵する地租収入を確保することで、維新政府の財政的基盤を確立することにありました。このため政府は、近世において事実上実現していた農民の土地所有権・売買権を法的に認め、さらに全国の土地を調査して面積・所有者・地価を確定のうえ、地価に対して一定の比率の地租を徴収する制度を定めます。
 明治6年7月の地租改正法公布以降作業がすすめられますが、近世同様の重い貢租が農民の反発を招きます。兵庫県においては、明治9年2月の臨時県会の場で、地価算定・地租賦課〔ふか〕実施方法などへの反対が討議されています。全国的にも、明治9年末の茨城県や三重県における大規模な地租改正反対一揆をはじめとする激しい抵抗が起こり、明治維新政府の根幹をゆるがしかねない事態となったため、政府は明治10年1月の太政官〔だじょうかん〕布告により、地租賦課率を地価の3%から2.5%へと減額することを余儀なくされました。
 こういった経過を経て実施された地租改正の結果、全国から納付されることとなった地租は、明治初期の政府収入の大部分を占めました。明治維新政府は、こうして確保した財源により、近代化諸施策を実施していくことになります。一方で幕藩制支配と同様の重い貢租負担を負わされた農民たちの不満はくすぶり続け、そのことが明治10年代において自由民権運動が活発化する大きな背景要因のひとつとなりました。

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近代化の諸施策

 このようにして、近世領主制支配に替わる近代的な統治システムが確立されるなか、地方においてはさまざまな近代化施策が実施されていきます。明治5年8月公布の「学制〔がくせい〕」にもとづく各地域への小学校設置も、そのひとつでした。初期の小学校設置・運営経費は町村に重くのしかかり、就学率も明治維新期においてはなかなか改善されませんでした。
 また、郵便・電信・鉄道といった近代的運輸・通信網も、明治初年代にいち早く整備されていきます。
 こうして、文明開化の名の通り、急速に近代化がすすめられ、地域の様相や人々の日常も大きな変化を遂〔と〕げていくこととなりました。

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