地盤沈下

じばんちんか
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
水没した道路と尼崎第一・第二発電所(1954年撮影)
水没した道路と尼崎第一・第二発電所(1954年撮影)

  1913年(大正2)尼崎町内の井戸に潮水が浸出して飲めなくなるとか、海岸近くでは満潮時に下水があふれるとか、あるいは19161917年ころ西長洲付近の田の地底から潮水が浸出するなどのことがあった。また大正末期には神崎川に海水が逆流し上水道の水源を淀川に求めねばならなくなった。これらのことはこのころすでに尼崎に地盤沈下がはじまっていたことを推察させる。しかし地盤沈下が明確に意識させるようになったのは、1934年(昭和9)9月室戸台風のさい3mの高潮によって南部工業地帯が大きな被害をうけたころからである。この年大阪市でも地盤沈下の調査をはじめ、そのため尼崎市内に水準器標が設置された。翌1935年3月の「尼崎市下水道調査報告」によれば、東・西本町筋の旧国道沿いはO.P.(大阪湾最低潮位)4mであったがその南北は低下し、東部の大物〔だいもつ〕町、西部の竹谷町は1.82m内外,南部の東西高洲町・東浜町一帯は1.5m内外で、いずれも満潮海面下であった。さらに1939年の県の調査では阪神国道福知山線の交差点付近では1926年以来0.7m沈下し、国道跨線〔こせん〕橋にひび割れが生じていた。またこのころ、貴布禰神社(西本町)付近では1933年当時に比べて0.7m、東向島の住友金属工業鋼管製造所付近では1m沈下していた。その後も豪雨・高潮で浸水被害が出たが、戦時中工場の操業度が低下するに従って沈下速度も緩慢となった。これは工業用水として地下水を大量に汲み上げることが地盤沈下の原因であることを証明するものであった。終戦後の1950年ジェーン台風の大きい高潮被害を契機として閘門式の防潮堤が計画され1954年に完成した。しかしなお地盤沈下は進行し南部の工場のなかには水没して放棄されるものが続出した。この対策として地下水利用を制限するため、1957年から工業用水道の建設がすすめられた。1970年前後までは沈下が続いたが、以降は臨海埋立地の一部を除いてほぼ沈静化している。

執筆者: 山崎隆三

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