私塾

しじゅく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  庶民の教育機関である私塾・寺子屋は、尼崎地方で比較的はやい時期のものとしては天明年間(1781~1789)につくられた常松村の秦野塾寛政年間(1789~1801)の西新田村の紅花堂、1823年(文政6)瓦宮村の伊丹叔栗の寺子屋などが知られるが、幕末期には急速に普及した。尼崎町の小蜆屋・英海堂などは寺子(生徒)が300人をこえる大規模なものであったが、一般には100人前後で少ないものは20人前後であった。また江戸詰めの藩士を対象とした止善舎や、鴨田白翁・伊藤蘭斎北窓父子の私塾もあり、藩校正業館の西寮・東寮は庶民教育にも解放されていた。これらの私塾は、1872年(明治5)の学制とともに尼崎の橘園小学・常松小学のように小学校開設の母体となったものが多く、学校教育の普及発達の前提条件としてその果たした役割は大きい。また公立小学校の普及後も、漢学のほか英語・数学などの私塾が多数開かれ、独自の教育方針・内容によって公立小学校の果たしえないところを補い教育に貢献した。

執筆者: 山崎隆三

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