縄文時代

じょうもんじだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  紀元前8,000年ごろから同300年ごろまで続いた狩猟採集経済を基盤とした社会で、石器を利器とし独自の土器様式を生みだした。尼崎市域では、猪名川下流の園田競馬場北側(標高4m)、藻川中流の中食満(標高4.4m)、庄下川上流の上之島(標高4.4m)の各地域で、縄文晩期の土器片が弥生前記の土器片と混在して採取されている。また、田能遺跡(標高6m)では晩期末の船橋式土器片が単独で採集されている。これらの地域はいずれも縄文時代の推定海岸線に近く、旧猪名川や旧武庫川の河口に当時形成されはじめた砂州三角州の地帯である。尼崎周辺の早期・前期の遺跡としては芦屋市朝日ヶ丘縄文遺跡、箕面市稲遺跡・瀬川遺跡があり、これは山麓台地に位置する。後期前半では千里川上流に近い豊中市野畑遺跡が、通称桜井谷の台地南斜面(海抜45m)にある。中・後・晩期の長期にわたる低地の遺跡としては、かつての淀川河口にあたる地域に大阪市森の宮遺跡(海抜2~4m)があるが、田能遺跡北方の千里川下流域にある勝部遺跡(海抜6m前後)では少数の晩期土器が検出されているにとどまる。遺跡地が台地から平野部・河川の氾濫原へ移ってきた縄文晩期から弥生時代前期の時期に、尼崎市域ではようやく人々の生活が始まろうとしていたのである。

執筆者: 村川行弘

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