序説/尼崎の歴史の舞台1/縄文海進前の尼崎の地下(田中眞吾)




地形断面図の作成

 ここでは、約6千年前にあった縄文海進前の地形、いまでは地下深く埋没している段丘〔だんきゅう〕地形を見てみることにします(注1,2)。
 範囲は、南は海岸部、西は武庫川、東は猪名川・神崎川、北は国道171号線に囲まれた尼崎市域です。ここに南北3本、東西2本の断面を設定し(図1)、それぞれの線に沿った計約400本のボーリング柱状図によって作成した断面図から読みとることができる地下の地層、およびそれらから読みとることができる埋没地形を見ていきます。
 まず南北断面から始めます。


図1  尼崎市域地形断面の設定位置

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南北断面-A

 地形的には、標高45mの伊丹台地の最北東端からほとんど凹凸〔おうとつ〕のない伊丹台地北半が昆陽〔こや〕池陥没〔かんぼつ〕帯付近まで続きます。それ以南に比べ高度は大で、表面の傾斜も急です。伊丹断層部分には猪名野神社があり、比高6〜7mの段差(段丘崖〔がい〕)があります。この部分には伊丹断層が東西に走っています.伊丹断層の南では、標高18m付近からの地表はゆるやかに傾きながら猪名寺付近(標高10m)まで階段状に下がっており、四段の段丘地形が見られます。
 猪名寺付近の4〜6mの高度差を境にして、南側は標高5m以下の尼崎低地で、最南端は淀川大橋付近の低地となります。
 次に地下の状況を見ます。この断面における第一の顕著な特徴は細粒層のあり方です。ここでの細粒層は、粘土〔ねんど〕層とそれより少し粒子の粗いシルト層を、便宜上一括〔くく〕りにしています。細粒層は、上下の二層あり、両者とも右、すなわち海方向へ傾きながら続いています。
 下部のより長く続く層は、伊丹粘土層(Ma12)として知られている海成粘土層で、最終間氷期の海進時の堆積〔たいせき〕物です(注3)。地層の固さの指標ともなるN値(標準貫入試験値)は4〜10程度です。
 上部の阪急線以南に見られる粘土層(図2の薄茶彩色層)は、地下マイナス3〜6m以深にあり、断面右手では厚さが10m以上となり、また、貝殻片の含有も顕著です。N値は1〜4程度と軟らかくなっています。この粘土層は、その位置・深さ・貝化石・N値などから、縄文海進にともなうMa13粘土層で、大阪湾およびその周辺の浅所の地下一帯に見られます。
 これら両層は当時の堆積環境や堆積年代を示す重要な指標層となります。Ma13粘土層の上には厚さ5m程度の砂層が続いています。貝殻片を含む地点もありますが、一般的には腐植〔ふしょく〕が目立ちます。これは縄文海進以後、現在の海水面に至るまでの海退期の砂層と考えられます。
 断面北半の伊丹台地の構成層は、厚い砂礫〔されき〕層を主体としていて、N値も多くは50以上と圧倒的に大きく、伊丹台地南半の砂礫層とは明瞭に区別されます。
 上記二つの粘土層に挟まれて厚さ5m程度の砂礫層が見られます。それらは板状に、また階段状に続いています。これらは、断面上、伊丹台地表面に見られる段丘地形とそれを構成している段丘礫層と同様な関係で、地下に続いています。つまり、これらは伊丹粘土層を堆積させた下末吉〔しもすえよし〕海進以降の、気候の寒冷化にと もない形成された段丘地形および段丘層が、その後、約5〜6千年前の縄文海進により海水下に没し、その際に堆積した粘土層などにより埋没化した、いわゆる埋没段丘であると判断されます(注4)。明石以西の隆起地域においては地表に形成されていた野口段丘群と、それを構成している段丘礫層に相当する礫層です(注5)。
 この断面において、縄文粘土層が消失する部分の右手部分は、縄文海進の最前部の海蝕崖〔かいしょくがい〕と考えられます。


図2−1 南北断面−A

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南北断面-B

 地形的には伊丹市立西中学校以南に三段の段丘地形が見られ、塚口駅付近からは海岸平野となります。段丘を形成している礫層は、前述南北断面-Aと同様、地表同様の段差を示しながら一続きに、海岸平野の下の三〜四段の礫層へ階段状に続いているように見えます。
 この断面でも、段丘礫層を挟んで二層の粘土層が顕著で、高度的に、また含有している貝化石・N値などから、上が縄文海進にともなう粘土層(Ma13、薄茶彩色層)で、下方が伊丹粘土層(Ma12)です。
 なお、縄文粘土層は、阪急塚口駅付近で段丘礫層とぶつかり、突然消失しています。この崖は、縄文海進時の海蝕崖と考えられます。


図2−2 南北断面−B

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南北断面-C

 地形的には左半分は伊丹台地で、2〜3mの小さな段差をもちつつ、階段状に下っています。JR立花駅の北付近からは高度3mとなり、わずかな起伏を示しながら海岸まで続く部分は、典型的な海岸平野で、地表上の起伏は砂州〔さす〕列に当たる部分を示しています。
 図の左半分、伊丹台地部分の柱状図群は細粒層を挟み厚い2枚の砂礫層からなっています。細粒層は固結し、礫層のN値は50〜100と、既述の礫層・細粒層とは全く性状が異なっています。これらは伊丹台地北半の台地を構成する、より古期の砂礫層等と考えられます。
 阪急線以南の資料は海岸平野部分の柱状図群です。この断面でも、段丘礫層を挟んだ二層の南北につながる粘土層が顕著で、高度的に、また含有している貝化石、N値などから、上方が縄文海進にともなう粘土層で、下方が伊丹粘土層であることはあきらかです。
 この断面でも、上下二層の粘土層に挟まれて砂礫層が階段状に続いています。これらは、他の2本の南北断面と同様、Ma12の海進から最終氷期に向かう時期の1〜2万年周期の気候変化にともなう海退時を反映した段丘礫層と考えられます。
 なお、縄文粘土層およびその上の厚い砂層はJR立花駅の北付近で突然切れます。これは、南北断面-Bと同様、ここに縄文海進時の海蝕崖があることを示します。
 次いで市域の東西断面を見ていきます。


図2−3 南北断面−C

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東西断面-1

 伊丹台地を昆陽池地溝帯の凹地(川)を境に北および南の伊丹台地に分けると、その南伊丹台地の中央付近を東西に切った断面です。西は阪急神戸線の武庫川鉄橋付近の氾濫原〔はんらんげん〕から伊丹市山田付近の伊丹台地、伊丹市立高校付近の台地上の凹地、再び伊丹市中央付近の台地を経て、JR伊丹駅北から猪名川側の氾濫原へと続いています。伊丹市立高校付近の幅広い凹地は、かつて伊丹台地北部から続いていた天神川の名残りの凹地と見られます。
 伊丹市山田付近から東の台地表面には、8〜9mの厚い砂礫層が見られ、N値は50前後と大きく、その下には、南北断面で見た伊丹粘土層、およびそれに先行して堆積していた砂層が東西に続いています。それ以降に堆積した段丘礫層は武庫川側へ階段状に降下しています。
 地形断面は東高西低で、武庫川沿いへは階段状に下っています。氾濫原部分の砂礫層も、地下で段丘礫層として下り、その後、砂層が次第に厚くなります。それぞれの段丘礫層の高度も地表面高度と同様、階段状に下っています。
 伊丹粘土層の下には砂礫層が見られ、N値は50〜100と極めて大であり、上層の伊丹台地表面の段丘礫層とは区別されます。


図3−1 東西断面−1

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東西断面-2

 地形的には西の武庫川の氾濫原から伊丹台地南縁付近の微起伏を東へたどり、最後には藻〔も〕川の氾濫原部分に至る凹凸を示しています。
 表層地質については、庄下〔しょうげ〕川西方から南北断面線-Aの間には伊丹台地を構成する厚い伊丹礫層とその下の細粒層が明瞭です。この細粒層は伊丹粘土層ですが、その下部の砂層とともに下末吉海進期の堆積物です。
 伊丹礫層・伊丹粘土層は東西両側で非常に明瞭に、より新規の地層で区切られています。西方の境界は庄下川の上流にあたり、東方のそれは藻川の西にあたります。西半の断面では最終氷期最盛時へ向かう武庫川の大きく鋭い切り込みが、複雑な堆積層の組み合わせとして見られます。藻川側は適切な資料がなく不明瞭ですが、同様に最終氷期最盛時への切り込みが見られるようです。つまり、これらは前述の最終間氷期の海進後における、最終氷期の海面低下にともなう武庫川、猪名川のそれぞれの激しい浸食を示すものでしょう。武庫川側では地下マイナス4〜5m付近以深、マイナス9m以深に砂礫層が厚く続く部分があり、これらは階段状に下る埋没段丘を構成する礫層と考えられます。


図3−2 東西断面−2

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縄文海進前の地下の段丘

 ここまで、南北3本、東西2本のボーリング柱状図断面について、個々の断面に見られる特徴を見てきました。そこでは、各断面とも上下の細粒層の間を礫層が階段状に海側へ下る状態が見られました。ここでは市域全面にわたり、断面図以外の柱状図も取りあげ、その階段状礫層の平面的な分布の状態を見ることにします。また、時期も縄文海進直前の状態、つまり、5〜6千年前の海進直前の地形、埋没された段丘地形を見ることにします。
 前述の南北断面3本において、階段状に降下する礫層の上面が、ほぼ共通して高度6、0、-6、-12、-18、-24mに見られましたので、その高度別に礫層を色分け図示したのが図4の「尼崎市域地下の埋没段丘」です。
 これらのうち、高度6m線付近の地下には、各断面でも指摘したように、この線を境にして地層が南北に続かないという特徴があります。この部分は、縄文粘土層の消失する部分でもあり、それゆえ、縄文海進による海蝕崖によるものと考えられます。ちょうど、現在、明石市西明石の海岸の海蝕崖下で生じている現象と同じと考えられ、また、縄文海進による海蝕崖と考えられる豊中台地南縁の顕著な崖の位置とも整合的です。
 図5「海水面変化曲線図」は、約20万年前頃から現在までの海水面の変化を描いた図です。曲線の山の部分が温暖期の高海面期、谷の部分が寒冷期の低海面期を示します。曲線の各部分には、図示してあるような固有のステージ番号がついています。たとえば、5eは12万年前の高海面期、2は最寒冷期、いわゆる氷河期にあたります。
 この図と尼崎地下の堆積物や埋没段丘と考え合わせてみましょう。尼崎の地下には二層の顕著な粘土層がありましたが、下方の粘土層は図の5e大型海進によるものです。上方の粘土層は縄文海進の粘土層と読んでいましたが、左端の軸沿いに急上昇している曲線が示す海進です。2付近の落ち込みは最終氷河期を示し、約2万年前です。尼崎では南北断面-Bの辰巳橋付近の粘土層下の礫層が堆積した頃です。
 図の2から5eの間には小さな凹凸がありますが、それらはもう少し小型の気候変化があることを示しています。それらの寒暖による海進・海退が尼崎地下の多段の段丘地形を造りました。ただ、縄文海進という大型の海進があったために、前述の海蝕崖付近の段丘地形は浸食され、変形されているようです。


図4 尼崎市域地下の埋没段丘


図5 海水面変化曲線図

〔注〕
(1)市域地表の微地形については、序説2「尼崎市域の微地形」に記したとおり、戦前期の大スケールの空中写真を判読することにより、人工改変を受ける以前の状態の地形を細かく知ることができた。また、市域の最終間氷期(約12万年前)以降の複数段の段丘地形が、地表と地下に存在していることはすでにあきらかにされている(田中眞吾・井上茂・辻村紀子「伊丹台地南縁の地表・地下の段丘地形」『地域史研究』30-3、平成13年3月)。
(2) 資料は、新・旧『大阪地盤図』(昭和41、62年)および『土地分類基本調査・大阪西北部』(兵庫県、平成8年)に掲載されたボーリング資料群である。
(3) 伊丹粘土層(Ma12)として知られている海成粘土層で、古谷正和氏(昭和53年)によって、最終間氷期の海進時の堆積物であることがあきらかにされた。
(4) 前掲注(1)、田中・井上・辻村「伊丹台地南縁の地表・地下の段丘地形」参照。
(5)『加古川市史』第1巻(平成元年)

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