近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎/この節を理解するために(岩城卓二)




「尼崎城下絵図」大垣市立図書館蔵
 寛永12年(1635)8月、戸田氏鉄〔うじかね〕が大垣へ転封を命じられた直後に作成。城の南方に築地町は築造されておらず、海に面した築城当時の姿を伝えています。



尼崎城の景観(尼崎市教育委員会蔵「尼崎城下風景図」より)
 手前の町並は、城の南方に寛文4年(1664)完成した築地町。四層の天守を備えた尼崎城は、大坂城の西の守り、そして尼崎藩領支配の拠点でした。

戦乱の終結

 15世紀後半からの約100年間は長い戦乱の時代でした。室町幕府をはじめ古代・中世の権威・権力は没落し、代わって地侍や商人ら新興勢力が台頭し、各地に戦国大名が登場しました。戦国時代と言えば、武田信玄・上杉謙信・毛利元就などの武将が繰り広げる領土拡張戦争に目を奪われがちですが、民衆にとっては実に過酷な時代でした。戦国大名が繰り広げる戦乱に巻き込まれ、たびたび悲惨な被害を受けたからです。そこで惣村〔そうそん〕に結集した民衆は生命と財産を守るために武装し、ときに水や山の権利をめぐって隣村と激しい武力衝突を繰り広げました。
 この戦乱の世を終わらせ、天下統合に着手したのが織田信長で、彼の死後、その大仕事は豊臣秀吉へと引き継がれました。強力な軍隊を組織して諸大名との戦争に勝利した秀吉は大名間の領土拡張戦争を禁止し、兵農分離と石高制〔こくだかせい〕という原理で国内統治をすすめました。その方針は年貢徴収者=武士と、納入者=百姓という身分を確立し、百姓には武装解除のうえ耕作権を認めますが、年貢・諸役の負担を義務づけるというもので、これを実現するための施策が有名な太閤検地と刀狩令です。
 一方、大名をはじめ武士には石高に応じた軍役〔ぐんやく〕を負担させると同時に、苛政〔かせい〕によって百姓を苦しめることがないように説き、百姓が耕作に専念できるような支配を求めました。これらの方針は近世の基本原理となりましたが、秀吉は確固たる権力基盤を確立できないままに死去しました。

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「泰平」の時代

 最終的に天下統合を成し遂〔と〕げたのが徳川家康です。関ヶ原の戦い(1600年)、大坂の陣(1614〜15)で徳川家の覇権〔はけん〕が確立し、長い戦乱の時代は終わり、「泰平〔たいへい〕」の時代が始まりました。「泰平」とは、世の中がおだやかに治まり、平和なことを言います。
 徳川家は、将軍を頂点とする幕府に領主層を結集させることで、権力基盤を強固なものとしました。諸大名はこの幕府の支配下にはありましたが、それぞれ独自に領国支配を行ないました。これを幕藩体制といい、17世紀後半にほぼ完成されました。
 日本列島で戦乱から平和な世へという大きな転換が起こっているこの時期、東アジア世界も激動期を迎えていました。東アジアでの貿易にポルトガル・スペイン、そしてオランダ・イギリスが参入し、激しい主導権争いが繰り広げられ、既存の秩序は壊されていきました。東アジア世界の盟主であった明〔みん〕は、大陸東北部に樹立された女真族〔じょしんぞく〕国家との戦いに敗れ、清〔しん〕が建国されました。また、秀吉の朝鮮出兵は東アジア世界に大きな衝撃を与えました。
 幕府はこの激動下、17世紀中頃までにキリスト教禁止と幕府の貿易独占という外交秩序を確立し、北は蝦夷地〔えぞち〕の一部から南は琉球〔りゅうきゅう〕までを国土としました。
 幕藩体制は武士が百姓・町人・職人・賤民〔せんみん〕などの諸身分を支配する政治体制でしたが、その支配はそれぞれの身分集団を通じて行なわれました。たとえば、百姓は個人単位で年貢・諸役を賦課〔ふか〕されるわけではなく、村が年貢納入・法令遵守の単位となりました。これを村請制〔むらうけせい〕といいます。武士が結集した統一権力は検地や刀狩りによって被支配身分を編成し、支配しましたが、惣村で培〔つちか〕われていった民衆の自治力を用いることなくして、円滑な支配をすすめることはできなかったのです。その結果、村は村民の生活単位と支配単位というふたつの側面を持つことになりました。

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尼崎市域の近世

 平和を取り戻した社会では古代・中世を凌〔しの〕ぐ大規模な開発が行なわれました。人口の80%程度は農業に従事していたと考えられていますが、この農民たちの耕地増大欲求や商人たちの資本投下、土木・測量技術の進歩、領主による灌漑普請〔かんがいぶしん〕などによって18世紀前半の耕地面積は17世紀初頭の約2倍に達しました。
 城下町の建設もすすめられ、都市が大きく発達したことも近世の特徴です。城下町は農村を離れて集住する武士の支配拠点で、その軍事力を維持・強化することが主要な役割でしたが、領域経済の中心地、文化・情報の発信地でもありました。
 本節ではこうした戦乱から平和な世への転換を、第2節以降ではこの近世の平和がどのように維持され、また矛盾を内包し、解体していったのかを尼崎市域に即して叙述しています。とくに天下の台所と呼ばれた巨大都市・大坂との関係に注意を払いました。それは政治的にも、経済的にも尼崎の近世を考えるうえで大坂との関係は切り離せないからです。
 現尼崎市域には旗本領・幕府領もありましたが、本編では尼崎藩政の展開と藩領の動向を中心に叙述しています。これは市域をはじめ西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)に、尼崎藩という譜代〔ふだい〕大名が配されたことが、この地域の近世を考えるうえでたいへん重要だと考えるからです。尼崎に城があったこと、市域が幕藩体制を維持する軍事的、経済的要地であったことなどはあまり知られていないと思います。教科書や概説書ではほとんど取り上げられていませんが、市域の近世は幕藩体制の成立、展開、解体という節目ごとに重要な位置を占めていました。
 こうした市域の近世を、具体的な歴史的事実からわかりやすく叙述することを心がけ、図版類も地域研究史料館で多くの方が閲覧できるものを用いるようにしました。また、近世を理解するために不可欠な幕府政治の展開、外交問題、文化などについては、各節冒頭の「この節を理解するために」においてふれていますので、これらも併せてご一読ください。



近松門左衛門『国性爺合戦〔こくせんやかっせん〕』(地域研究史料館蔵、堀江家旧蔵本)
 日本人を母に持つ平戸生まれの鄭成功〔ていせいこう〕は明の将軍となって清と戦い、日本に派兵や武具の援助を求めましたが、かないませんでした。近松門左衛門『国性爺合戦』はこの鄭成功の史実をもとにした作品で、正徳5年(1715)に人形浄瑠璃〔じょうるり〕として初演されると大当たりしました。
 近世は多くの庶民が歌舞伎・人形浄瑠璃に熱狂し、書物を読み、俳句を楽しむなど幅広く文化を享受できるようになった時代です。


〔参考文献〕
朝尾直弘他『要説日本歴史』(東京創元社、平成12年)
朝尾直弘『大系日本の歴史』8(小学館、昭和63年)
横田冬彦『日本の歴史』16(講談社、平成14年)

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