現代編第1節/戦後復興の時代/この節を理解するために(佐賀朝)




建設当初の防潮堤より、末広町の発電所群を望む
(昭和29年2月、片岡敏男氏撮影)

 第二次世界大戦の終結を、多くの市民は衝撃をもって受け止めました。戦災による生産・生活基盤の崩壊と、急激なインフレや混乱した社会情勢のなか、戦時中から進行していた食糧不足をはじめとする生活の危機は、さらに深刻さの度合いを増していきました。
 こうしたなか戦後初期の尼崎市政は、市民生活の維持と、復興事業を通した都市計画行政の推進などを柱として進められます。戦前以来の懸案であった園田村の合併も、昭和22年(1947)に実現しました。

戦後改革と民主化

 降伏した日本の占領統治を行なう連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもと、すすめられた民主化政策により、戦前日本の天皇制国家の基盤であるところの、非民主的・軍国主義的国家制度は基本的に解体されました。その仕上げが、国民主権、戦争放棄と基本的人権の尊重をうたった日本国憲法の制定(昭和21年、翌22年施行)でした。
 この戦後民主化政策のもと、民衆はその権利を訴えて、食糧危機とインフレが進行するなか、さまざまな社会運動に立ち上がります。尼崎でも多くの労働組合が結成され、戦前に続いてふたたび関西における労働運動の拠点となりました。一方、農地改革が進展するなか一時的に農民組合運動が高揚しますが、尼崎地域では戦前来の都市化がさらにすすみ、農地が徐々に縮小して農業の解体が進行する結果となりました。
 民主化政策がすすめられるなか、さまざまな困難やあつれきも生じました。財政的裏付けを欠いた新制中学校の建設は難航し、その負担が地域に重くのしかかります。自治体警察の創設と運営も難航しました。昭和25年には、警察と密輸業者の癒着〔ゆちゃく〕などの不正腐敗が発覚し、尼崎市警察問題として紛糾〔ふんきゅう〕しています。

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冷戦と占領政策の転換

 日本の植民地支配からの解放後、東アジアにおいては東西両陣営の対立が激化します。昭和23年には朝鮮半島を分断する形で大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立し、翌24年には中国大陸における国共内戦に勝利した中国共産党が、中華人民共和国を建国しています。
 こうしたなか昭和22〜23年頃、アメリカは対日占領政策を転換し、日本を東アジアにおける反共の防波堤と位置付けるとともに、早急な経済的自立をはかる方針を打ち出します。この結果、GHQは国内の労働運動や社会運動、とくに共産主義勢力に対する取り締まりを強化し、同時に経済安定九原則や「ドッジ・ライン」にもとづく予算均衡・インフレ抑制策を実施していきます。このため昭和24年にはデフレ不況となり、国内では経営合理化の嵐が吹き荒れました。
 尼崎地域においても、戦後急速に発言権を増した労組〔ろうそ〕に対して資本の側の巻き返しがはかられ、深刻な労使対立が見られるようになります。昭和25年の大谷重工争議に代表される大規模な労働争議も発生し、同年6月に朝鮮戦争が始まると、前年来のレッド・パージによる共産主義者への弾圧も強化されていきます。
 その一方で、朝鮮戦争は特需〔とくじゅ〕景気をもたらし、日本経済は一時的な立ち直りを見せました。ただし、関西地方では同じ昭和25年9月に襲来したジェーン台風の被害が大きく、尼崎市においても、災害復興ならびに、抜本的な災害対策であるところの防潮堤〔ぼうちょうてい〕建設が大きな市政上の課題となります。戦後初代の公選市長である六島誠之助〔せいのすけ〕と、2代目の阪本勝〔まさる〕がこれに取り組み、昭和30年度中に防潮堤を完成。しかしながら、その多大な財政負担が要因となって、尼崎市は昭和31年度に財政再建団体の指定を受けることになります。

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復興から成長へ

 朝鮮戦争を機に東西冷戦構造が深刻さを増すなか、講和を急ぐ日米政府はソ連・中国などを除いたサンフランシスコ平和条約を昭和26年に結び、同時に日米安全保障条約を締結します。こうして成立したサンフランシスコ講和体制下、日本は西側陣営の一員として、ことにアメリカとの緊密な関係のもと、戦後復興から高度経済成長へと突きすすんでいきます。アメリカにとっても、軍事基地を提供する親米国家日本は、東アジアにおける重要な存在でした。
 こうしたなか、尼崎地域の経済もまた復興を遂〔と〕げていきます。戦前来、鉄鋼を中心とする基礎資材型重化学工業が中心であった尼崎地域は、戦後復興期において国策的に石炭・鉄鋼などの基礎産業部門を重視し、その重点的復興をはかる「傾斜生産方式」のもと、いちはやく「鉄のまち」としての復活を果たしました。
 しかしながら、多くは中小規模であり、高炉〔こうろ〕を持たない平〔へい〕・電炉〔でんろ〕メーカーあるいは鋼材加工に特化した単圧〔たんあつ〕メーカーであった尼崎の鉄鋼各社は、国際的な競争力強化をめざす鉄鋼合理化の流れのなかにおいては淘汰〔とうた〕され、あるいは大手銑鋼〔せんこう〕一貫メーカーの系列化に再編されていく結果となりました。その過程でしばしば深刻な労使対立が生じ、大規模な労働争議が頻発〔ひんぱつ〕。なかでも、尼崎を代表する鉄鋼メーカーであった尼崎製鋼の倒産と、神戸製鋼傘下への再編を招いた昭和29年の尼鋼争議の衝撃は大きく、戦闘的で団結力が強いことで知られた尼崎の鉄鋼労組も、次第に非妥協的な闘いを貫くことは困難となっていきました。
 なお、戦後復興期から高度経済成長期にかけての尼崎の経済活動に、大きな影響を与えたできごとのひとつに、電話市外局番の「06」番化があります。昭和29年8月、市内西長洲〔ながす〕に尼崎電報電話局を設置し交換を自動化する際、尼崎市、同市議会、商工会議所や工業経営者協会など市財界が連携して、日本電信電話公社に対して熱心に働きかけた結果、市域全域が大阪局管内に編入され、その後昭和37年に「06」番化が実現しました。編入時点で人口30万人以上と決して規模の小さくない尼崎市が、府県域を超えて大阪市外局番に編入されるという、全国的に見てもめずらしい事例でした。これにより、尼崎市内と大阪の間は市内料金で通話できることとなり、大阪の本社や事業所、取り引き相手などと頻繁〔ひんぱん〕に通話する必要のある尼崎市内の事業者にとって、経済活動上大きなメリットを生むことになりました。

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