中世編第1節/中世社会の形成4/平安末期の動乱と尼崎地域(田中文英)




源為義の大物浦進出事件

 平安末期になり、神崎川流域から河尻〔かわじり〕一帯にかけての地域が発展すると、貴族や寺社ばかりでなく、新興の武士勢力も進出してくるようになります。そのため、この地域も諸勢力が入り乱れて抗争する激動の時代を迎えます。
 その最初が、久安年間(1145〜51)に、源為義が、長洲御厨〔ながすみくりや〕内の大物〔だいもつ〕の地を押領しようとして、御厨の領主である鴨社の訴えで宣旨が下って追い払われた事件です。その詳細は不明ですが、為義をめぐっては別の事件も起こっています。
 『本朝世紀』の仁平元年(1151)7月14日条には、「去る比、左大臣(藤原頼長)、前非蔵人源頼憲を遣わし、大夫尉為義の摂津旅亭を焼かしむ」と記されています。これによると、為義は、すでに以前から「摂津旅亭」(別宅)を設けて活動しており、それが左大臣藤原頼長や多田源氏の源頼憲らの利害と対立したため焼き討ちにあったのでしょう。したがって、さきの大物浦押領事件も、摂津旅亭を拠点として、さらに大物浦へと進出し、西国へ勢力を伸ばすための基地を築こうとしたために引き起こされたものと考えられるのです。
 源為義は、当時、河内源氏の棟梁ですが、その勢力は、平忠盛らの伊勢平氏に押されていました。平忠盛は、白河・鳥羽両上皇による院政と結びついて積極的に登用され、備前・讃岐・美作・播磨などの受領〔ずりょう〕を歴任し、また、海賊の追討使として活躍するなど、瀬戸内海沿岸地域に勢力基盤を拡大していました。
 他方、為義は、摂関家の藤原忠実・頼長父子に臣従するなど勢力挽回に努めますが、受領にさえなることができませんでした。こうした状況のなかで、為義が平忠盛らに対抗して瀬戸内海方面へ進出するための拠点を確保しようとしたのが、摂津旅亭の設置であり、大物浦への進出であったと見てよいでしょう。

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保元の乱と藤原頼長・源頼憲

 ところが、為義のこうした行動は、鴨社をはじめ既存の諸勢力との抗争を引き起こしました。藤原頼長が源頼憲に命じて為義の摂津旅亭を焼き払わせたのも、その表れです。
 藤原頼長は摂関家氏長者〔うじのちょうじゃ〕で為義の主筋にあたる貴族であり、源頼憲は多田源氏の嫡流行国の子で、ともに尼崎地域と深い関係にありました。藤原頼長は、摂津国に5か所の荘園を持っており、そのうち尼崎市域に富松〔とまつ〕荘・大島雀部〔ささべ〕荘・野間荘−野間荘の一部は伊丹市に及んでいる−の3か所があるなど、所領支配面で重要な地域でした。一方、多田源氏も早くから河尻方面への進出をはかっており、源実国が開発した所領をその子孫が、康治年間(1142〜44)に皇嘉門院聖子に寄進して生島荘を成立させたりしています。源頼憲も仁平3年12月頃に、父行国の「遺財田地」をめぐって舎兄と摂津国で合戦するなど懸命に所領支配の拡張に努めていました。こうした状況のなかへ源為義が進出してきたため、それを快く思わなかった藤原頼長が源頼憲に命じて摂津旅亭を焼き払わせたのでしょう。尼崎地域も、一族・主従でさえ武力で相争う動乱の時代へ突入したのでした。
 やがて、保元元年(1156)7月に勃発した保元の乱によって、彼らの運命に大きな変化が生じます。藤原頼長は敗死し、前記の富松荘・大島雀部荘・野間荘を含む29か所の所領が没収されてしまいます。源為義も子息らを率いて崇徳上皇方について奮戦しますが、乱後,斬刑に処せられました。さらに、源頼憲は、その子盛綱とともに崇徳上皇方に加わったため盛綱ともども斬首されました。その結果、多田源氏の主流は、頼憲の兄頼盛とその子行綱へと引きつがれることになります。

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浜田荘と地名「崇徳院」

 旧浜田村域の一部に現在も崇徳院〔すとくいん〕1〜3丁目があり、そこは近世以前からの小字名「崇徳院」のあったところです。保元の乱に破れた崇徳上皇が讃岐国に流される途中に浜田で休息され、上皇の死後にその霊を村で祀〔まつ〕った故事にちなむ地名との伝承があります。
 上皇の冥福を祈り怨念を鎮めるための廟所は、京都にも建立されました。保元の乱の勝者・後白河院による粟田宮です。浜田荘は、粟田宮に寄進された各地の荘園のひとつでした。浜田と上皇の縁は、むしろこちらに起因しているのかも知れません。
 歴史的な地名は、それを見聞きした人々の興味と関心をかきたてます。


松原神社(尼崎市浜田町)
 旧浜田村の鎮守社。祭神として、素盞嗚命〔すさのおのみこと〕・三輪明神とともに崇徳天皇が祀られています。
 浜田村は、南側に隣接する東新田(現琴浦町など)とともに中世の浜田荘の荘域でした。

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寺江山荘と福原遷都

 源為義・頼憲らが保元の乱で敗死したあと、尼崎地域へ勢力を伸ばしてくるのが平清盛です。清盛は、平治の乱(平治元年・1159)において、源義朝を破って最強の武門としての地位を確立すると、めざましい昇進を遂〔と〕げ、仁安2年(1167)には従一位太政大臣となります。翌年病を得て出家し、摂津国の福原(現神戸市兵庫区)の別邸に隠棲しますが、その後も政治権力を手放さず、この福原の地を瀬戸内海と西国支配の中心地にしようとします。とくに日宋貿易の利益に注目した清盛は、瀬戸内海航路の整備や大輪田泊〔おおわだのとまり〕の修築、経ヶ島の築造などを積極的に行ない、嘉応2年(1170)には宋船が福原まできています。そうした状況のなかで福原と神崎川を結ぶ地域にも平氏関係の別荘や所領が形成され、その支配が及んできます。
 神崎川の河尻には、清盛のブレーンとして知られる権大納言藤原邦綱〔くにつな〕の別荘「寺江〔てらえ〕山荘」が建てられています。治承4年(1180)3月に高倉上皇が厳島神社へ社参したとき、京都を出発した上皇一行は、神崎川を下ってこの別荘で一泊しました。その日、上皇たちは清盛が差し遣わした「唐船」(宋船)に乗って別荘近くの江を巡りました。試乗だったようです。結果としては、翌日は悪天候のために乗船できず、陸路で西宮・福原へ向かったのですが、福原どころか尼崎まで宋船が来ることのできる体制が整えられていたのです。
 同年6月、福原遷都〔せんと〕が断行された際も、この別荘は、京都から福原に向かう後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇・平清盛らの宿所になっており、その後も京都と福原・西国を往来する貴族たちがしばしば立ち寄っています。
 この寺江山荘のほかにも、武庫川東岸の現尼崎市域には武庫御厨が存在し、西岸の現西宮市小松付近には小松荘が形成されています。この両荘は平家の所領で、後に没官〔もっかん〕されて源頼朝の手に帰しています。


治承4年(1180)高倉上皇の厳島神社御幸
 3月19日に寺江山荘に宿泊した上皇たちは、平清盛が手配した「唐船」に近くの江で試乗しました。しかし、翌日は悪天候だったため、陸路で西宮・福原へ向かうことにしました。
 寺江山荘近くの河尻まで、大型の宋船が来ていたことがわかります。


福原京の遺跡 平家一門屋敷の二重堀
神戸市 楠・荒田町遺跡出土
兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所『ひょうごの遺跡』50より

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源平争乱と河尻地域

 平清盛が権勢を強化するのに比例して、他の政治諸勢力との対立は激化していきました。まず、安元3年には、鹿ヶ谷事件が起こります。この事件は、後白河法皇の近臣の藤原成親・西光らが、多田源氏の多田行綱らを巻き込んで平氏打倒の謀議をめぐらしたものでした。しかし、この計画は、多田行綱が清盛に密告したため発覚し、行綱も安芸国へ流されますが、まもなく許されました。
 この鹿ヶ谷事件の結果、後白河法皇と清盛の対立は決定的となり、ついに治承3年11月に清盛は政変を断行し、法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止し、独裁的な政治体制を確立しました。しかし、それは、反平氏勢力との政治的対立を一挙に激発させることになりました。
 そうした状況のなかで、翌治承4年5月、源頼政が平氏討滅の決起を呼びかける以仁王〔もちひとおう〕の令旨〔りょうじ〕を奉じて挙兵しました。頼政は、淀川の河口に位置する摂津国の渡辺津(現大阪市中央区)に本拠をもつ武将で、その輩下に海の武士団として知られる渡辺党を従えていました。しかし、その挙兵は多勢に無勢のため失敗し、南都の寺院勢力を頼って逃げようとするところを平氏の追撃を受け、宇治の平等院付近で激戦のすえ敗死しました。『平家物語』(巻四)は、頼政以下、渡辺党の省〔はぶく〕・授〔さずく〕・競〔きおう〕らが勇猛果敢に抗戦するさまを精細に描いています。この以仁王の乱はあえなく鎮圧されましたが、これを契機に各地の反平氏勢力が蜂起し、全国的な争乱へと突入していったのでした。
 源平の争乱は、その後、幾多の曲折を経て、やがて寿永2年(1183)7月、木曽義仲の軍勢が京都に迫ってきました。その頃には、多田行綱も義仲に呼応して蜂起しています。『玉葉』の7月22日条には、行綱は日頃服していた平氏に離反して、摂津・河内両国を横行し、河尻の船を次々に差し押さえたりしていると記しています。また、『吉記』の7月24日条にも、多田源氏の一族の太田太郎頼助が、行綱の下知と称して、河尻で船を襲って鎮西から輸送されてくる平氏の兵糧米を奪い取ったり、人家を焼き払ったりしているので、平資盛が軍勢を率いて河尻に向かったと述べています。しかし、平氏のそうした対策も時すでに遅く、ついに25日に平家一門は都落ちし、28日には木曽義仲・源行家らが入京したのでした。
 ところが、木曽義仲は、まもなく後白河法皇と対立して、同年11月、法皇の御所の法住寺殿を襲撃します。この法住寺合戦のとき、行綱は法皇方について戦い、敗れて多田に落ちのび、城内に籠って義仲の命令を拒否したと言います(『玉葉』・『平家物語』巻第八)。

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源義経と大物浦

 翌寿永3年正月20日、宇治川の合戦で木曽義仲を破って入京した源範頼・義経の軍勢は、平氏追討の宣旨を得て、兵庫の一ノ谷に拠る平氏を攻めるため29日に京都を進発しました。その軍勢のなかには多田行綱も参加しており、2月7日の一ノ谷の合戦では、行綱は義経の指揮下に属して山手から攻撃し、まっ先に勝利をあげたと言います(『玉葉』)。
 この源平の争乱も、元暦2年(寿永4、1185)3月、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡し、ひとまず終結しました。しかし平家の滅亡後、周知のように源頼朝と弟義経の対立が激化し、義経は後白河法皇に迫って頼朝追討の宣旨を出させますが軍勢を集めることができず、ついに同年(文治元)11月3日、都を落ちて西国へ向かいました。ところが、義経の一行に、多田行綱らの多田源氏一族が襲いかかります。はやくも3日には、太田太郎頼基らが河尻辺で攻撃し、義経らは激戦のすえ打ち破って西に向かったと言われます(『玉葉』・『平家物語』巻第十二)。
 また、『吾妻鏡』によると、5日には多田行綱らが河尻で前途をさえぎって攻め寄せたので、義経の部下が多く離散し、ついで6日、義経らが大物湊から船に乗ったところ、突然暴風が吹き荒れ、船が転覆して行方知れずになってしまったと伝えています。
 多田行綱が義経攻撃の急先鋒になっているのは、義経寄りの立場をとってきたことを源頼朝に咎〔とが〕められるのを恐れたためでした。しかし、頼朝は行綱を許さず、行綱を多田源氏の惣領の地位から追放したのでした。


「摂州大物浦難風之図」(地域研究史料館蔵) 豊原国周画の木版刷浮世絵 3枚1組
 文治元年(1185)源義経主従が大物湊から船出したものの、平家の怨霊に悩まされて難渋している光景を描いています(本編第2節「この節を理解するために」掲載図参照)。

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文治元年(1185)「大江広元奉書案」 

 公文所別当大江広元〔おおえのひろもと〕から源氏の一族で伊賀守護となった大内惟義〔これよし〕に宛てて、頼朝の厳命を伝える文書です。年号は追筆で、「二年」とあるのは元年の誤記です。
 義経主従が大物浦から姿を消した直後の命令で、行綱を追放した後の多田荘の支配と義経・行家の捜索を命じています。要旨は、「敵がいないときには、狼藉〔ろうぜき〕は良くないことだと反省すればいい。荘園が存在し、国衙〔こくが〕が存在するからと言って、これだけの敵を荘園・国衙の者たちの捜索に任せて放置しておけようか。武家の狼藉を戒める院宣が出されているからと言って、どうして尋ね探さないでおけようか。義経・行家を探し出せない限り、鎌倉には戻ってくるな、よくよく探せ。……」というものです。


文治元年「大江広元奉書案」
多田神社蔵、多田神社文書 写真提供:川西市教育委員会


文治元年「大江広元奉書案」解読文・読み下し文

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