中世編第2節/中世社会の展開2/港津の発展と商工業(大村拓生)




河尻の刀禰

 14世紀に成立したと考えられている『庭訓往来〔ていきんおうらい〕』は、後々まで初等教科書として利用された手紙の文例集であり、それぞれに主題があり主要な語句が列挙されています。そのうち卯月〔うづき〕11日書状は、当時の流通のあり方と、各地の特産物を知ることができる商業・流通史の基本的な史料で、そこには室(現たつの市)・兵庫の船頭に続いて、淀・河尻〔かわじり〕の「刀禰〔とね〕」についての記述が見えます。淀は桂川・鴨川・木津川が合流する付近で京の外港的な役割を果たしていた場所で、河尻は尼崎市を含む神崎川河口付近の総称です。瀬戸内海水運を通じて運ばれてきた物資は、河尻で川船に積み替えられ、神崎川・淀川を遡上〔そじょう〕して淀にもたらされていました。刀禰はそれらの物資を管理する業者のことで、問丸〔といまる〕とも呼ばれました。河尻でも彼らが多数活動していたため、文例として挙げられたと考えられます。

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檜物商人の活動

 鎌倉時代の河尻における商業活動の実態を知ることができる希有〔けう〕な史料が、「弁官補任〔べんかんぶにん〕」紙背文書所収の貞応2年(1223)3月日蔵人所牒案〔くろうどどころちょうあん〕です。実務貴族であった藤原頼資〔よりすけ〕は太政官の事務を担う弁官について、歴代の人名を書き上げた「弁官補任」を作成しました。その時に頼資はみずからの手元にあった文書を適当な大きさに揃〔そろ〕えて用紙として使った結果、たまたま文書が残されることになったのです。文書の内容は檜物〔ひもの〕供御人〔くごにん〕(本節1参照)が蔵人所に御書櫃〔ごしょひつ〕を造進することを条件に、みずからの商圏で他地域の檜物商人が活動することの停止などを訴えて認められたもので、その控えが蔵人頭〔くろうどのとう〕の頼資の手元に残されたのです(写真後掲)。檜物とは檜〔ひのき〕・杉などを剥〔は〕いで造った板を曲げて筒状にして、別の板を貼って容器にしたもので、桶・樽が普及する以前には幅広く利用されていました。河尻にもたらされた材木を原料として、檜物加工が発達したものと考えられます。
 書き上げられている彼らの商圏は、大きく河尻周辺2群と、河内国中部の3群にわけることができます(後掲地図参照)。まず賀島庄内美六市〔かしまのしょうないみろくいち〕(文書は切断されているため欠字があり、適宜それを補っています)は、大阪市淀川区加島にあたり、平安時代から神崎川の川湊(津)で遊女も活動していたことが知られています。美六市は弥勒市のことで、荘内の市の美称でしょう。国衙内市小路市〔こくがないいちこうじいち〕は摂津国司が「要津」とする5か所のうち、「往古の国領、印鎰〔いんやく〕(国印と鍵、国守権限の象徴)の敷地」と言われる国衙直轄の津の浜崎と考えられます。浜崎の厳密な位置は不明ですが、賀島の対岸の尼崎市西川から浜付近が想定されます。椋橋庄〔くらはしのしょう〕檜物は、猪名川が神崎川に合流する付近の川を挟んだ尼崎市から豊中市にかけての地域で、檜物とあることから檜物集団の中心的拠点であった可能性があります。久代庄内今市〔くしろしょうないいまいち〕・豊嶋市〔てしまいち〕は、猪名川を遡〔さかのぼ〕った川西市と池田市にまたがる地域になります。続いて久濃嶋〔くのしま〕・門嶋〔もんしま〕・鵲嶋〔かささぎしま〕と嶋地名が見え、正確な位置は不明ですが、記されている位置から考えて猪名川の中州の可能性があり、そこに市が立てられていたのかもしれません。橘御薗〔たちばなのみその〕は、尼崎市から伊丹市、川西市、宝塚市にかけて広がる散在所領です。長洲〔ながす〕は10世紀末から史料に見え、当時の海岸線に立地し東大寺領長洲荘・鴨御祖社〔かものみおやしゃ〕領長洲御厨〔みくりや〕が存在しました。大物〔だいもつ〕は長洲の南で12世紀から史料に見え、当該期にも最も海よりの港湾として機能していました。尼崎がここに見えませんが、尼崎浜は「大物以南河を隔て、久安以後の新出地なり」(真福寺文書、『尼崎市史』第4巻所収)とあるように、久安年間(1145〜51)頃に成立しています。ただし、都の貴族の認識のうえでは、大物と尼崎を混同している史料もあり、両者が区別して記されるまでになっていなかったと考えられます。続いて鳴尾が記されており、小松・広井とともに武庫川河口部に立地します。西宮は広田社・西宮戎〔えびす〕とともに発展した港湾です。2番目に□(東ヵ)河・西河、惣河尻内とあり、東は賀島から西は西宮までの地域が河尻と呼ばれ(郡で言うと河辺郡・武庫郡に相当します)、全体が檜物商人の商圏となっていたことがわかります。
 ここまでの地名はほぼ線でつなぐことが可能で、商人は河尻内の市および都市的な場を巡回して販売活動を行なっていたものと思われます。彼らが供御人として結集して他地域の檜物商人の活動を阻止しようとしたものでしょう。それとは別に河内国若江郡蒲田新開〔かまたしんかい〕(現東大阪市)、真田郡(茨田〔まった〕郡)榎並〔えなみ〕・高瀬(現守口市)が記されています。河尻の檜物集団と何らかの特別な関係があったためと思われますが、詳細な事情はわかりません。
 この史料からは、地域の檜物商人が一枚岩であったかのように見えますが、もちろんそういうわけではありません。1世紀ほど経過した正和2年(1313)には春日社御八講〔はっこう〕杉櫃沙汰人の教念に対して、同じ春日社領の浜崎神人〔じにん〕の中にそれを妨害するものがいるとして、問題を報告するよう命じた史料が残されています。教念は尼崎住人と記され、尼崎が都市として成長するにつれ、そこに拠点を置く檜物商人も現れたことがわかります。教念は、春日社において興福寺により春秋に行なわれる仏事の「法華八講」で利用する杉櫃の調達に責任を負う存在で、それにより関銭免除などの流通特権を得ていたものと思われます。先の蔵人所御書櫃とあわせて、わざわざ遠隔地から檜物が調達されているのは、河尻における檜物生産の技術力の高さをうかがわせるものです。教念と蔵人所との関係はあきらかではありませんが、河尻のすべての檜物商人が春日社と関係を結んでいたとは思えません。地域的なまとまりを形成する一方で、権門とも結びついていたのは前代以来の状況だと考えられます。


檜物〔ひもの〕師
『職人絵尽〔えづくし〕』(久保田米齋編、風俗絵巻図画刊行会、大正6、7年)より


「弁官補任」紙背文書貞応2年3月日「蔵人所牒案(前後欠)」
国立歴史民俗博物館蔵
 この紙背文書は裏打ち紙の下になっており、不鮮明な文字は写真に写りません。原史料を実見して解読しました。


貞応2年3月日「蔵人所牒案(前後欠)」に見える地名


 興福寺大乗院僧正実尊の私房の床の間に書櫃が3基並んでいます。経典類が入れられているのでしょう。
前田氏実・永井幾麻「春日権現霊験記〔かすがごんげんれいげんき〕(模本)」(東京国立博物館蔵)より
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

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浜崎神人の生魚交易

 一方の教念と対立しているように見える浜崎神人は、春日社に供祭物〔ぐさいもつ〕を納入して特権を得ている生魚商人です。教念との関係はあきらかではありませんが、商業活動を通じて何らかのトラブルがあったのかもしれません。浜崎神人は弘安9年(1286)にも、摂関家に属する大番舎人主殿所〔おおばんとねりとのもどころ〕および鴨社の供祭人〔ぐさいにん〕と、生魚交易をめぐって三つどもえの対立があり、その主張が認められたようです。大番舎人の拠点は不明ですが(椋橋荘の可能性があります)、供祭人は長洲御厨を拠点としたと考えられ、市域では生魚交易に携わる商人が多数活動していたものと思われます。なお浜崎・長洲ともすでに海岸から遠ざかっており、漁労活動から生魚交易に転換していったものと想定できます。なかには、別の場所に定住する商人もあったことでしょう。
 浜崎神人は、貞和2年(1346)に広田社とも対立しています。広田社側の主張によると、彼らは「神崎持売商人」と呼ばれ、広田社に属する釣船から魚貝・小鰯〔いわし〕などを仕入れて販売したにもかかわらず、1人1荷あたり3文の銭を支払わず、催促されると刀を抜いて広田社神人を殺害しようとしたとされます。ここから浜崎神人が神崎(後に見るように当該地域の総称的な表現で、実際には尼崎の可能性もあります)に拠点をおいて、周辺地域の漁民から魚介類を購入して販売していたことがわかります。広田社もそのこと自体は問題にしていませんから、弘安9年の大番舎人・供祭人との対立も、仕入れもしくは販売にかかわる問題が原因だったのかもしれません。


 魚商人が藤原国能亭に魚介類を届けています。商人が鯛を家人に渡し、背後の長櫃には、左からガザミ(蟹)・魚(種類不明)・タコが並び、男が手に抱えているのは蛤と思われます。浜崎神人もこれらを扱っていたと考えられます。
石山寺蔵『石山寺縁起』巻五より

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関所の設置と船頭

 広田社はこの仕入れ商人に課税するやり方を「往昔〔おうじゃく〕より」と主張しますが、むしろ関銭徴収をモデルにした新しい方式ではなかったでしょうか。尼崎にはじめて関所が設置されたのは正応2年(1289)のことで、魚住島(現明石市)築造のために室・渡辺(現大阪市中央区)とともに1石あたり1升の徴収が決められました。徳治2年(1307)には一州〔いちのす〕と表現されていますが、兵庫・渡辺と並んで法観寺(現京都市東山区)造営のための目銭徴収が始まり、継続的に関所が置かれるようになります。
 尼崎(神崎と表現されることもあります)は兵庫・渡辺と並んで「摂津国三ヶ津」と呼ばれた、河尻地域の代表的な港湾でした。時代は降りますが、文安2年(1445)に東大寺領兵庫北関に入港した船の記録が残されています。それによると、尼崎を船籍地とするものは92艘〔そう〕にのぼり、杭瀬41艘、別所8艘、梶ヶ島4艘をあわせると145艘で、300艘の兵庫に次ぐ第2位になります。また船頭が大物に13人以上、市庭〔いちにわ〕に3人以上、辰巳に5人以上、魚崎に1人が居住していたこともわかります。

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富裕な尼崎の材木商人

 この関銭が免除されるのが、年貢と寺社造営の材木です。14世紀後半において南禅寺の造営材木は尼崎の問丸善重〔ぜんじゅう〕が扱っており、材木商人だと考えられます。そのほかに勝尾寺・鴨社・興福寺・祇園社・東寺・東福寺の造営材木が尼崎から運上されるか、もしくは尼崎で調達されるかしています。貞治4年(1365)の祇園社の三鳥居造営にあたっては、柱は京近郊から調達されていますが、鳥居の上に渡す横木である笠木・雨覆木〔あまおおいぎ〕は大工が尼崎まで下向して、「殊に好〔よ〕き檜木」を尼崎の商人と契約して調達しています。尼崎に到着した材木は商人たちによってさまざまなランクに選別され、流通していたことがわかります。
 また大報恩寺(千本釈迦堂・現京都市上京区)大堂は、貞応2年に尼崎の富裕な材木商人成金〔じょうきん〕(浄金)が霊夢により材木を寄進したことによって造営されたと言われています。人名がいかにもといったところで、創作かもしれませんが、富裕な材木商人と言うと尼崎との連想がはたらいたものと思われます。『庭訓往来』所収3月13日書状は、建物の部材を列挙して、「津湊において、これを買はせしむべし」としています。尼崎は、材木調達にもっともふさわしい港津〔こうしん〕のひとつだったのです。


 石山寺(大津市)の作事場面。手前には丸太・平割材が積まれ、奥では角材が加工されています。丸太として運ばれてきた材木の一次加工も、尼崎で行なわれたと考えられます。
石山寺蔵『石山寺縁起』巻一より

〔参考文献〕
大村拓生「河尻の檜物商人」(『地域史研究』35−2、平成18年3月)

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