労働農民党

ろうどうのうみんとう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1926年(大正15)3月5日に合法無産政党として発足後、12月にいたってようやく摂陽支部(公称党員数74人)が結成され、支部長には日農顧問弁護士の近内金光(のち河合秀夫)が就いた。支部事務所は武庫郡今津町津門(現西宮市)の近内宅、ついで尼崎市別所村奥長町の田中春雄宅におかれた。1927年(昭和2)5月に乾鉄線争議支援共闘声明を日本労農党尼崎支部とともに発表するが、党支持団体としての日農の組織が脆弱〔ぜいじゃく〕であり、関西合同労働組合指導部の数人の共産党員が活動の中心であった。1927年9月の県議選の尼崎市での得票は22票。1928年2月の衆議院選は日労党尼崎支部と共闘して尼崎市、小田大庄立花武庫園田村で近内が565票を獲得したが、兵庫県第2区では落選した。関西合同労組の瓦解にもかかわらず、近内の得票率3.7%には未組織の一般市民の支持が反映した。3.15事件による近内らの検挙で労農党は壊滅し、解散させられた。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 岩村登志夫「乾鉄線争議と尼崎工代会議」『兵庫史学』第49号 1968

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