無産政党

むさんせいとう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  戦前の既成保守政党に対抗する合法的な「無産者」(勤労者)政党。1921年(大正10)3月結成の共産党が、1923年6月に合法機関誌『労働組合』を創刊、その同人に藤岡文六、賛助員には山名義鶴らがいた。1925年7月には阪本勝・山名らの率いる関西民政党総同盟尼崎連合会などを母体に成立するが、1926年(昭和元)12月から翌年1月にかけて中間派の日本労農党、右派の社会民衆党両支部に分裂、左派の労働農民党支部も発足して合法無産政党が鼎立〔ていりつ〕。左派は3.15事件後の政獲同盟をへて全協傘下に入った。全国同盟結成にともない、山下栄二らも加えて中間派は全国労農大衆党に再編されるが、藤岡文六らは脱党して日本国家社会党へ移った。労大・社民両党が合同して1932年9月23日に社会大衆党尼崎支部が発足、一般市民の支持も得て、1935年9月の県議選には尼崎市から社大党系無所属の阪本が当選、1937年5月の同補選で当選の山下も、1939年9月に再選された。尼崎市、大庄立花武庫園田村では、1937年4月の衆院選に社大党が7,120票(得票率30%)を確保した。この結果、兵庫県第2区から立侯補した米窪満亮が当選した。左派も東方会に潜入して1939年7月には摂陽支部を結成、兵庫県農民連盟を基盤とした。社大党は1940年5月の市議選に臨んだが全候補が落選、6月には解散した。しかし、1942年4月の衆院選に、尼崎市(旧大庄・立花・武庫各村を含む)と園田村で阪本は22,239票(得票率51%)を獲得、他の旧無産政党2侯補あわせての得票率は56%にも達した。

執筆者: 岩村登志夫

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