大阪鎮台

おおさかちんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  維新政府は鳥羽伏見の戦いのあと直ちに幕府領を没収、それを直轄するための行政機関として1868年(慶応4)正月22日大阪鎮台を設置したが、これは5日後に大阪裁判所と改称された。これとは別に、廃藩後解隊した諸藩常備隊から選抜して編制した政府直轄軍の駐屯地として、1871年6月(明治4)8月18日東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4鎮台を設置した。1873年6月尼崎藩士族25人が大阪鎮台補闕兵として、また1人が大阪鎮台附武兵として大阪鎮台に入営している。鎮台兵は当初、このような諸藩士族から徴集された「壮兵」から成っていたが、同年1月の徴兵令発布以後は一般国民からの徴兵が主力となっていった。大阪鎮台管下の徴兵は1874年に実施され、同年4月兵庫県(第2次)から14人が入営した。

執筆者: 山崎隆三

  1873年(明治6)1月に徴兵令が公布され、同年7月に鎮台条例を制定、軍管区制度が定めれらた。これにより、大阪鎮台が第4軍管を統括し、管下に第8師管(営所大阪)、第9師管(営所大津)、第10師管(営所姫路)がおかれた。1874年4月、徴兵令による最初の徴兵が行われ、兵庫県域の壮丁は大阪鎮台管下の伏見営所(分営)、姫路営所、兵庫営所に適宜入営、同年5月には歩兵第8連隊(大阪)、第9連隊(大津)、第10連隊(姫路)編成が編成された。

  1883年12月に徴兵令が改正され、各師管の軍管区表により徴兵区が定められた。この結果、1884年以降、現尼崎市域を含む兵庫県域の壮丁の歩兵はすべて第4軍管(大阪鎮台)管下の第8師管(姫路営所)歩兵第10連隊に入営することになった。1888年5月、鎮台が廃止され師団が設置された。これにより、国内内乱鎮圧を目的として編成された鎮台に替わり、師団長(陸軍中将、親補職)以下歩兵4個連隊、砲兵1連隊、騎兵・工兵・輜重兵各1大隊からなる師団が野戦における独立戦略単位として編成された(この編成はその後時期によって変化する)。この結果、大阪鎮台は第4師団となり第7旅管(大阪)と第8旅管(姫路)を統括、兵庫県は第8旅管に属することになった。

執筆者: apedia編集部

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