古代編第2節/律令国家の形成と展開/この節を理解するために(高橋明裕)




為奈真人〔いなのまひと〕木簡
写真提供:奈良文化財研究所


猪名寺廃寺〔はいじ〕跡(中央の森) 平成14年撮影
 藻〔も〕川に面した伊丹段丘〔だんきゅう〕先端部に立地。現在は、猪名川と藻川の分岐点より約700m下流に位置しています。

豪族の官僚化と猪名寺廃寺

 この節では、6世紀から平安時代が始まる9世紀頃までの尼崎市域の歴史を扱います。6世紀は大和王権の地方支配が進展し、王の権力基盤も整備されていった時代です。6世紀初頭に、後に継体天皇と呼ばれるようになる大王〔おおきみ〕が即位しました。淀川流域に一時期大王の宮を構えたことが伝えられるなど、摂津地域の政治勢力と密接な関係を持っていたことがうかがえます。
 高槻市今城塚〔いましろづか〕古墳は継体の古墳と推定され、淀川西岸地域に近い尼崎市域も継体の登場により大きな影響を受けました。この頃よりこの地域には、継体の子孫である王族が居住するようになります。後に為奈真人〔いなのまひと〕氏と呼ばれる王族などです。
 6世紀中頃の欽明大王の時代は、百済〔くだら〕の聖明王から仏教が公式に伝えられたことで知られます。それと同時に、凡河内直〔おおしこうちのあたい〕氏(凡河内国造〔くにのみやつこ〕)などのような王権を支える官僚的な豪族が活躍し始め、国造を中心とした地方支配のしくみが整備されました。
 6世紀末に推古女帝が即位するとともに、厩戸皇子〔うまやどのおうじ〕(聖徳太子)が蘇我氏と協力しながら朝廷の組織を拡充していきました。いわゆる冠位一二階や憲法一七条の導入です。仏教の導入以後、中央の王族や豪族によってその権力の象徴として造営された仏教寺院は、中央の勢力と密接な政治的関係を有する地方豪族たちによっても、次第に造営されるようになりました。
 中国大陸では隋〔ずい〕が滅んだのち、唐が興り朝鮮半島の緊張が高まっていました。大和王権も、政治的意思の分裂を克服する必要に迫られていました。派遣されていた留学生たちが帰国し、唐の中央集権的な国家制度の知識が伝えられました。大化元年(645)、中大兄皇子〔なかのおおえのおうじ〕(のちの天智天皇)はクーデターで蘇我氏を滅ぼし、孝徳天皇を擁立〔ようりつ〕して政権を握りました。いわゆる大化の改新です。新政権は唐の法典である律令の導入をはかり、中央集権的な国家制度を目指しました。百済が唐・新羅〔しらぎ〕連合軍に滅ぼされたのを受けて、天智天皇2年(663)に百済救援の軍を派遣しましたが大敗します。そのさなか、中大兄皇子は天智天皇として即位し、軍事力の強化と中央集権化に努めました。
 天智天皇の死後、皇位継承の争いが生じ、天智天皇の弟大海人皇子〔おおあまのおうじ〕が東海や美濃などの地方豪族を動員して大友皇子の近江朝廷を滅ぼしました。これが天武天皇元年(672)の壬申〔じんしん〕の乱です。大海人皇子は天武天皇として即位し、律令国家建設の事業をすすめました。
 豪族たちは国家の官僚に登用され、それまで経済基盤としていた土地と支配下の農民を取りあげられるかわりに、国家から給与を支給される存在となりました。農民は戸籍に登録され、地方は国−評〔こおり〕−50戸(のちに「里」)制という行政組織に編成されました。
 経済力を活かして寺院を造営する地方豪族も多く現れました。猪名寺廃寺〔はいじ〕が造営されたのもこの頃です。天武天皇の事業は、持統天皇に引き継がれ、大宝元年(701)に大宝律令が完成しました。

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班田収授と条里制

 律令国家のもとでは土地は公有とされ、農民たちは6歳以上の男女に口分田〔くぶんでん〕が与えられる班田収授〔はんでんしゅうじゅ〕の制度のもと、耕地を耕作し、税を納めるようになりました。そのために律令国家は国家的規模で耕地の造成を行ないました。その際に統一区画の耕地を造成し、一定の規格にそった地割りおよび土地の表示方法として採用されたのが条里制でした。条里制の痕跡を通じて、律令国家時代の国家的な開発の様子を知ることができます。
 一方、班田収授を行なうための台帳として農民の家族を登録したのが、6年ごとに役所によって作成される戸籍であり、課税のための台帳が毎年作成される計帳でした。尼崎市域にはこのような文献史料は残念ながら残っていませんが、律令国家は納税者や身分の移動までをも管理していたので、そうした人名が記された史料や地名などを手がかりに、奈良時代のこの地域の様子を知ることができます。
 古代の農民は、税を納めるために国家によって編成され、生活していたと言っても過言ではありません。郡を構成する里(のちの「郷」)が50戸をもって1里となるよう人為的に編成されていたように、里や戸といった単位は生活のための単位と言うよりも、徴税や支配のためのもので、その登録簿が戸籍や計帳でした。ですから里・郷の実態は農民の生活の基盤となっていたのではなく、耕地や支配制度の都合によって存続していたのであり、村落の内実は希薄なものでした。そのために国・郡には境界がありましたが、里・郷は領域的なものではなく、消滅したり新規の郷が出現したりするなど流動的なものでした。
 古墳時代以前の農民は有力者である首長・豪族に依存しながら土地を開拓して生活していましたが、律令国家の成立により農民は国家に依存する存在となりました。一方、地域の豪族は郡司や里長として勢力を維持し、中央の官人貴族は高い位階と官職を得て広大な土地を位田〔いでん〕・位封〔いふう〕、職田〔しきでん〕・職封〔しきふう〕などの給与として与えられ、また天皇家や中央の大寺院も地方に勢力を扶植〔ふしょく〕しようとしました。

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東大寺領猪名荘の成立

 過重な納税の負担に苦しむ農民が口分田を放棄し浮浪・逃亡した結果、耕す者がいなくなった口分田は荒廃し、土地公有制にもとづく班田収授の制度は動揺しました。国家は開発の奨励にあたって、貴族や大寺院、地域の有力者の力を利用するようになります。養老7年(723)に三世一身の法が、天平15年(743)に墾田永年私財法が出されて開墾地の私有が認められ、貴族や大寺院が開墾をすすめていきました。
 尼崎市域は6世紀頃より王族が集住し、7世紀後半に王権の禁猟区が設置されるなど、王権と密接なかたちで地域開発がすすめられてきたことが特徴です。
 奈良時代に入って、聖武天皇の死後、猪名の土地が東大寺に施入〔せにゅう〕されて猪名荘〔いなのしょう〕とされ、海浜部の開拓が東大寺によってすすめられました。これに加えて、摂津には藤原氏の広大な田地が設定されるとともに、天皇家や皇族のための土地も設定され、大規模な開発の対象となっていました。猪名川流域の丘陵地は未開の平原として皇族や藤原氏の権力者に与えられ、はじめは狩猟地などにされ、次第に開発がすすめられていきました。これら有力者や国家の土地開発に依存・隷属していた地域の農民や漁民は、次第にそれぞれの生業を発展させ、村落に根ざした生活を築いていきます。こうして、時代は中世へとすすんでいきました。

猪名庄遺跡発掘現場を北から望む 尼崎市広報課撮影
 平成9年にJR尼崎駅北側の再開発地区で行なわれた発掘調査により、奈良時代の倉庫跡をはじめとする貴重な遺構・遺物が発見されました。


猪名荘旧跡のフィールドワーク(第2回猪名庄遺跡を学ぶ会、平成10年3月) 市立地域研究史料館撮影
 市街地での古代遺跡の発見は高い関心を呼び、「学ぶ会」には多くの地域住民・研究者が参加しました。

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