古代編第2節/律令国家の形成と展開4/猪名荘絵図を歩く(鈴木景二)

東大寺へ寄付

 天平勝宝8年(756)、現在のJR尼崎駅付近にあった皇室の領地と現地管理事務所の「宮宅〔みやけ〕所」が、奈良の東大寺に寄付されました。大仏を建立したことで知られる聖武天皇がこの年に亡くなり、その追善供養の資にあてるためです。土地の権利者が変わるとなると、現在の登記と同じように、その地域を管轄する役所に所在地や面積を確認してもらう必要があります。そのために作成され東大寺に交付された地図が「摂津職〔しき〕河辺郡猪名所地図」(写真1)です。いまから1,250年も前の尼崎の地図というわけです。ただし、いま残っている図は奈良時代の原本ではなく、12世紀頃に写したものだと考えられています。平安時代になり海辺へと開発がすすむと、新開地の利権をめぐって東大寺と、租税徴収を促進する摂津国当局や浜辺の利権を獲得した京都下鴨神社との間で訴訟が繰り返されました。その裁判の過程で、東大寺が証拠書類として提出するため、所蔵していた原本をもとにこの写しを作成したらしいのです。
 この時点で、原本作成からすでに400年余り経っていたため、写した人も原図の描写の意味がよくわからなかった部分があったようです。そのために、見たままを写したらしい意味不明のカタチが書き込まれています。また、誤字脱字もあります。さらに、平安時代までに開発がすすんだ部分を意図的に描き込んでいるようです。つまり、奈良時代の地図に後世の情報が加味されているのです。これが、この地図の研究をむずかしくしているところです。しかし、言いかえると奈良時代の一時期だけでなく、その後の開発の進展の結果をも含んでいるということですから、上手に読み解けば、地域の開発の経過の歴史をも汲〔く〕みとることができる史料ということになります。

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地図

 地図を見てみましょう(写真1)。和紙を貼り継いだ、縦64.5cm、横123.5cmの横長の用紙で、いまは掛け軸に仕立てられています。上が北です。右端には、対象地が「摂津職河辺郡猪名所地」と記され、続いて総面積、その内訳が記述されます。内訳には、現地事務所と考えられる宮宅所の敷地面積、田地・開墾田地・未開墾地・浜などが計上されています。この面積の合計は総面積と合いませんから、誤字があるのか、原図の記述に何らかの加味がされているようです。
 一方、左端には、この地域を管轄する摂津職・河辺郡の役人、および都から田地設定に来た使者によって、記載内容を認定証明する署名が記されています。この左右両端の文字記述にはさまれた中間に、方眼線をベースにして土地の様子が描き込まれています。この方眼線は条里を表しています。古代に平野部の耕地に設定された1町(約109m)間隔の地割です。この1町四方の1マスが1坪という単位で、図のマスに書き込まれた数字がその順番を示しています。これが縦横六つずつ、すなわち36で里というまとまりになります。この里を縦横に〜条〜里というふうに数えます。図の右端に「一条九里」などと記されているのがそれです。これらの数字を座標にして、ある土地の所在地を確定することができるのです。

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写真1 「摂津職河辺郡猪名所地図」


尼崎市教育委員会蔵、縦64.5cm×横123.5cm
解読図は、「摂津国河邊郡猪名所地図写(翻刻)」(『兵庫県史』史科編古代1)より

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描かれているもの

 では、図のなかを細かく見てみます。まずは面積の書き上げに敷地面積が計上されている「宮宅所」を探してみましょう。おそらく領地の中心の安定した位置にあるはずですし、地図もそこを中心に描かれるに違いありません。そこで真中の上の方を探すと「宮宅地」と記した地点があります。方眼の位置で言うと上から3段目、右から11列目、条里の地番で言うと「二条九里二十九坪」です。ここが東大寺に寄付された耕地の現地管理事務所の場所です。
 このポイントを中心にして、この地図の特徴とも言うべき二重線が、大きく複雑な横長の同心楕円〔だえん〕状に描かれています。その左右の一番外側の線沿いに「西外堤」などと注記されていることから、この二重の楕円の線は防潮堤を示しているようです。そしてその内側のマス目のなかには、「小浜田」「入江田」「塩垂田」といった名称の田が分布していて、かつては海が入り込んでいたことを偲〔しの〕ばせています。この状況は、中心地から海側へ何度も堤防を築いて干拓〔かんたく〕し、耕地を広げていった歴史を物語っています。現在の潮江という地名もそうした歴史の痕跡であると思われます。右下に見える扁平〔へんぺい〕な雲形は、そうした干拓の名残〔なご〕りの湿地帯とも考えられます。
 一方、外郭〔がいかく〕の東には「入江」があり、南には杭瀬浜、長渚〔ながす〕浜(長洲浜)・大物〔だいもつ〕浜と記されているように、東西南の三方はまだ海に近い状態でした。
 ところで、堤防と見られる二重線と直交する二重線も描かれています。これらは一体のように見えますが、堤防と堤防が直交するとは考えにくく、実は堤防で囲まれた内側から外への排水溝、あるいは道路であろうとも考えられています。それが転写の際に混乱して同じ表現になってしまったらしいのです。そのため、具体的にどの部分を溝あるいは道と判断すべきかは、研究者の間でも意見がわかれています。そのほか、小刀のような形や、凸形なども、なお未解明です。
 このように、この地図はいろいろ考えながら読み込むと、古代の海辺の耕地開発の歴史がおぼろげながら浮かび上がる史料なのです。

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現地はどこか

 この地図だけでも、千年以上も前の干拓事業の歴史を記録した稀〔まれ〕な史料です。しかし、この地図が秘めている歴史をより深く知るためには、そこに描かれている場所がいったい現在のどこなのか、ということをあきらかにする必要があります。大体の位置は、南に杭瀬・長洲・大物の浜があること、東の入江の注記「淀河」が今の神崎川と見られることから、JR尼崎駅のあたりだと見当がつきます。
 さらに、尼崎市域周辺の条里地割がこれまでの研究によって復元されているので、その広範囲の方眼網に地図の方眼を当てはめれば、具体的な場所が判明します。方法は、地図と現在の地形図の縮尺を揃〔そろ〕えて重ね合わせ、少しずつずらしながら、全体の描写が同じ形になる位置を探していくのです。ただし、条里の復元も確実ではなく、諸説がわかれていました。この場合、1か所でも確実に地図と現代の地形図の合致点が決まればかなり確かになります。実は以前から、そうした地点があるらしいことが指摘されていました。それは図の「宮宅地」と、近年まで残っていた現潮江1丁目内にあたる「東大寺」という地名です。JR尼崎駅のすぐ北側付近です。この地名は、古代の東大寺の現地事務所にちなんで生まれた地名ではないでしょうか。そうだとすると、その場所こそ図の「宮宅地」だと推定できます。
 これを定点にして、地図が現在の地形図の上に復元されました。そうしてみると、図の北端の東西道路は、神崎病院から潮江高内交差点を経て尾浜交差点に至る道と、ゆるやかなカーブの具合がよく一致していることがわかります。こうして、多少のズレはあるものの、ほぼ現在地への位置付けは判明しました。しかもさらに驚くべきことに、これを確信させる証拠が見つかりました。遺跡の発見です。
 平成9年(1997)駅前の再開発事業にともなう発掘調査が、「東大寺」の地名の地点で行なわれました。その結果、現在は再開発ビル(アミング潮江ウエスト2番館)となっている場所から、奈良時代後期の大きな倉庫2棟を含む遺跡が見つかったのです。時代も図の作成された時期に相当しますし、「西庄」つまり西事務所という意味ではないかと考えられる文字の書かれた土器も見つかりました。
 「東大寺」の地名の場所から奈良時代後期の遺跡が見つかったということは、この地点が地図の「宮宅地」であったことを確信させるものでした。こうして、「猪名所地図」は現代のわたしたちの住む地域に直結する史料となりました。

「明治陸測図における猪名荘〔いなのしょう〕範囲の復元想定図」 (浅岡俊夫『地域史研究』31−1掲載論文より)


「現在の地形図における猪名荘範囲の位置比定(●部分は発掘調査地点)」(浅岡俊夫『地域史研究』31−1掲載論文より)

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現物と現地

 この地図は長い間、奈良時代の原本とともに大切な権利証拠書類として奈良の東大寺に伝えられていたはずです。しかし原本は失われ、この写しもその後、寺外に出てしまいました。幸いなことに現在は尼崎市教育委員会の所蔵品となり、兵庫県指定文化財となって大切に保管されています。ときおり展示されますので、ぜひともその機会に、じっくりと歴史を読みとってみてはいかがでしょうか。
 また、地図に描かれたおおよその位置は判明しましたから、この地図と現代の地図、さらには戦前の地形図や空中写真を見比べながら、実際に現地を探ってみることができます。まずは「東大寺」の発掘地点とその北の旧道が確かでしょう。そこから南へと歩みをすすめれば、直線的な新しい道路と不自然に交差したり、曲がったりする古い道に出会うはずです。そうした地割こそ、この地図に描かれた海辺の耕地開拓の歴史が、大地に刻み込んだ痕跡なのです。

〔参考文献〕
浅岡俊夫「東大寺領猪名庄の位置とミヤケ開発」(『地域史研究』31−1、平成13年8月)
〔参照項目〕
序説コラム「前近代の干拓技術」本節3「猪名荘の成立と地域開発」中世編第1節2「猪名荘の発展と長洲御厨」同コラム「猪名庄遺跡を掘る」

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