古代編第2節/律令国家の形成と展開3/猪名荘の成立と地域開発(鷺森浩幸)




猪名荘の成立

 天平勝宝8年(756)5月2日、聖武太上〔だいじょう〕天皇が死去しました。その後、聖武と光明皇太后の子である孝謙天皇の手によって、聖武の身近にあった品々が東大寺に施入〔せにゅう〕されました。これがいわゆる正倉院宝物の主要な宝物類です。あまり知られた事実ではありませんが、このとき、東大寺には水田なども施入されました。平城京内の2か所、大和国の3か所、摂津国の2か所の、合計7か所です。この摂津国2か所のうちのひとつが猪名荘〔いなのしょう〕です。残りの6か所は平城京内の葛木〔かつらぎ〕寺東所・田村所、大和国の春日荘・清澄荘・飛騨坂所、摂津国の水無瀬〔みなせ〕荘です。
 東大寺領猪名荘はこのようにして、天皇家からの施入によって成立しました。「摂津職〔しき〕河辺郡猪名所地図」(写真1)はこの猪名荘の図です。たとえば春日荘の場合は、春日離宮という離宮の諸施設および、その周辺の水田から構成されていたと推定されるなど、これら7か所の荘園は施入以前に開発がすすみ、きちんとした天皇家の所領となっていたと考えられます。奈良時代の東大寺領荘園と言えば、野を占定したのち、開発をすすめ水田などを確保していった越前・越中国など北陸地方の荘園が著名ですが、猪名荘はそれらとは異なるタイプになります。
 北陸地方の荘園に比べて面積は小さいのですが、開発の労力が不要なこと、土地の生産性も高かったことなどを考慮すれば、東大寺にとっての重要性は、決して北陸地方の荘園に劣るものではなかったと思われます。
 「猪名所地図」の下部には「杭瀬浜」「長渚〔ながす〕浜」(長洲浜)、「大物〔だいもつ〕浜」と、現在にも残っている地名が見えることからも、この図に描かれた場所をおおまかに確定することは、それほどむずかしいことではありません。猪名荘は現在の神崎川の西岸、尼崎市潮江付近を中心にして存在し、図にはこのあたりの状況が描かれていることになります。近年は地形などを考慮した現地比定がすすみ、よりいっそう明確な所在地があきらかになっています(本節4参照)

聖武太上天皇
 太上天皇は、天皇譲位後の称号。大宝元年(701)生まれ。文武天皇の子、母は藤原不比等の子宮子。同じく不比等の子光明子を后とし、阿倍内親王(孝謙天皇)はふたりの間の子。和銅7年(714)に立太子し、神亀元年(724)に即位した。天平元年(729)、長屋王の変を経て、光明子を皇后とした。天平9年の伝染病の大流行をきっかけとして社会や政治が混乱するなかで、仏教に傾斜していった。国分寺の造営や東大寺大仏の造営はその一端である。天平勝宝元年(749)、阿倍内親王への譲位と前後して出家し、勝満とも称した。出家によって政治からは引退したらしいが、その死去は政治的な動揺をもたらした。
北陸地方の東大寺領荘園
 天平勝宝元年の寺院に対する墾田所有を承認する詔をもとづいて、東大寺が北陸地方に使を派遣して未開発の野地を占定し、その後、開発をすすめた。越前国では足羽郡糞置・道守など8荘、越中国では射水郡須加、新川郡丈部など7荘が存在した。

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写真1 「摂津職河辺郡猪名所地図」


写真1 「摂津職〔しき〕河辺郡猪名所地図」
尼崎市教育委員会蔵 縦64.5×横123.5p

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「猪名所地図」を読む

 「猪名所地図」は天平勝宝8年12月17日という日付を持ち、摂津職〔しき〕(本節2参照)・河辺郡司の署名が記されています。しかし、現存する図は施入にあたって作成された図をもとに、おそらく平安時代後半頃に作成された写しです。署名の部分(写真3)に誤字が目立つのもそのためです。
 現存の「猪名所地図」が平安時代後半の写しであることから、平安時代に開発された部分なども記載されています。図に見える状況をそのまま、奈良時代の猪名荘とすることはできないのです。逆に、奈良時代から平安時代後半までの猪名荘の歴史そのものが、ここに凝縮されているとも言えるでしょう。
 写真1を見てみると、全面にわたってマス目が描かれていることが目につきます。これが条里で、土地の所在を正確に把握するために全国的に施行された土地表示のためのシステムです(本節2参照)。そのほかには複雑に交差した曲線と、ところどころに簡単な施設・地形などの表現があります。図としてはあっさりしたものです。それに対して、マス目ごとに細かく文字が書き込まれていることがわかります。この図のように条里を利用し、水田をおもな対象として描かれた図では、絵の要素が正確でなくても条里によって場所の確定が容易なため、絵画的な表現は簡単になり、文字の記載が優越することが多くなります。
 曲線には「旧堤」「東外堤」「西外堤」といった注記が見え、これらが堤防であることがわかります。ただ、どうもすべてが堤防なのではなく、河川や水路なども同じ形の曲線で描かれているようで、これが図の読解をむずかしくさせている要因です。全体の状況を考慮しながら、堤防と河川・水路などを区別していかなければなりません。おそらくもとの図には、なんらかの形でそれらが区別されていたのでしょうが、写すときにまぎれてしまったのでしょう。現在のところ、おおまかに図1のように推定しています。
 図の中央上部には雲のような区画が描かれ、そこには「宮宅地」という注記があります。「宮宅」は「みやけ」と読みます。「みやけ」といえば、大和王権の時代の天皇の所領である「屯倉」が有名ですが、この場合は荘園の管理施設などを意味します。猪名荘の経営の中核を担っていたのがここです。右下には比較的大きく、木の葉のような形のものが三つ並んで描かれています。これらについては、低湿な場所に存在する沼あるいは池のようなものとする解釈と、逆に島状に露頭した砂州〔さす〕とする解釈があります。
 写真2を見ると、マス目ごとの文字表記は詳細なものから番号だけのものまでありますが、大きく三つのグループに分類することができます。(1)図の中央上部あたりから右下に見える、番号、○○田という名称、面積、上・中・下のランクからなるもの、(2)左上部から中央下部に見える番号と面積からなるもの、(3)右から中央最下部に見える、番号のみのものです。番号が全体で共通していますが、これは条里の坪番号です。(1)では、これに加えて水田の名称が記され、さらに面積(これは東大寺の領有する分の面積)と田品、つまり水田の良し悪しが記されています。(2)の面積はもちろん東大寺の領有する面積です。実はこのような詳細な水田に関するデータこそが東大寺にとって重要なものなのであって、この記載があってこそ、この図は東大寺領猪名荘の存続を支える「公験〔くげん〕」(官府が土地所有権の移転を公認する文書)として意味を持ち、存在価値が生まれるのです。猪名所図は現在、普通に考える「地図」とは性格が異なるものなのです。

写真2 「猪名所地図」中央部拡大
 大きく書かれている数字が、坪番号。たとえば、右上端付近に「菅生田一町中」という記載が見えますが、これはこの坪の名前(地名)が 「菅生田」で、面積「一町」歩を東大寺が所有し、田品が「中」程度の生産高の土地であることを示しています。
 下端付近には、坪番号のみの記載も見られます。

写真3 「猪名所地図」署名部分
 摂津大夫の文室智努〔ふんやのちぬ〕はもと智努王といった皇親(天皇の一族)で、文室という氏を賜姓〔しせい〕され、皇親から離れました。従三位の位階を持つ当時の上流貴族のひとりで、仏教に対する信仰心の厚い人物でもありました。

 今後も、「猪名所地図」の研究や発掘調査の成果にもとづいて、猪名荘の実態がより明確になっていくものと思われます。それが、さほど実態のあきらかになっていない近畿地方の古代荘園の、貴重な事例となることはまちがいないでしょう。

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猪名荘の干拓

 図1のように、中央上部を中心に三重の堤防が存在すると見ることができ、猪名荘が内から外へ堤防を構築しながら、開発をすすめていったことが推測されます。施入当時は「宮宅地」付近が河口の三角州で、その前面には長洲などの砂州が広がっていました。このような場所で水田を確保していくためには、まずなによりも海水の浸入を防ぐことが必要になってきます。その役割を果たしたのが堤防で、このようなタイプの堤防を塩堤〔しおつつみ〕と呼んでいます。堤防を構築し、その内部を干拓〔かんたく〕して水田を確保し、それが終わればさらに外側に堤防を構築するという方法で、河口部や砂州の開発をすすめていったのです。平安時代後半には杭瀬・長洲・大物は浜となっており、どの程度、干拓されていたのかはよくわかりません。長洲などは、むしろ漁業・流通・商業の拠点として発展していきます(序説コラム参照)
 それぞれの堤防の構築時期を正確に把握することはむずかしいのですが、図1(1)の状態が施入当初の段階で、同図(2)が平安時代初期、同図(3)が平安時代後半(「猪名所地図」の作成時期)と推定しています。地図の冒頭の銘文や坪ごとの記載を勘案すると、水田の面積は、当初では27町程度、平安初期では85町程度、後半にはそれ以上と思われます。図1(1)の段階では右下の部分で堤防がきちんと閉じていなかったと推定されます。木の葉形の絵の解釈とも関わって、注意が必要なところと思われます。

図1 猪名荘の開発の進行

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猪名庄遺跡

 猪名荘については発掘調査でも大きな成果が得られています(中世編第1節2コラム参照)。猪名庄遺跡第31次調査は平成9年(1997)に潮江1丁目で行なわれ、古墳時代から中世を中心に多くの遺構・遺物が検出されました。この地はちょうど「猪名所地図」の「宮宅地」に相当します。
 平成9年の発掘により、この地に猪名荘の中心的な施設の遺構が確認されています。それは奈良時代の規則的に配置された建物群で、1または2間〔けん〕×5間、2間×2間の建物や3間×3間の総柱の倉庫と思われる建物などです。これらが猪名荘の「宮宅」(管理施設)を構成する建物であることはまちがいないでしょう。「猪名所地図」では文字表記だけで、状況のまったくわからなかった管理施設の様子があきらかになってきたわけです。また、井戸の埋土のなかから、重要な文字資料が出土しています。それは「西庄」と墨書された土師器〔はじき〕の皿です(図2)。「庄」は「荘」の意味で使われることが多く、この建物群が荘園と関連するものであることを示しています。ただし、「西」の解釈は未だ明確ではなく、今後の課題です。
 さらに、猪名荘成立以前の状態についても手がかりが得られました。古墳時代後期の水田跡が確認され、 この地の開発が古墳時代後期にさかのぼることがわか りました。この水田跡は洪水によってしばしば作り直されているようで、干拓の困難さを物語っています。

図2 西庄と墨書された土器実測図
『猪名庄遺跡』より


図3 奈良時代後半の掘立柱建物実測図
『猪名庄遺跡』より

〔参考文献〕
浅岡俊夫「東大寺領猪名庄の位置とミヤケ開発」(『地域史研究』31−1、平成13年8月)
鷺森浩幸『日本古代の王家・寺院と所領』(塙書房、平成13年)
尼崎市文化財調査報告第28集『猪名庄遺跡』(尼崎市教育委員会、平成11年)

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